「ファー・アウェイ・アイズ」はまだ聴こえているか?

アニメを教養として観るとは?~町口哲生『教養としての10年代アニメ』を読んで

『声優論』の共著者でもある町口哲生さんの『教養としての10年代アニメ』(ポプラ社)を読み終えた。

 

(117)教養としての10年代アニメ

(117)教養としての10年代アニメ

 

 

昨年、「受講条件は週20本の深夜アニメ視聴」というニュース記事で話題にもなった、近畿大学の講師でもある町口さんの新刊である。

bylines.news.yahoo.co.jp

 

町口が採用したアニメへのアプローチとは

私は2011~15年にかけての約5年間、深夜アニメを週に30本以上チェックしていた。ミステリや音楽などのポップ・カルチャー、それもユース・カルチャーとの連関をアニメに見出せるのではないかと思い、いわば「教養」としてアニメを観ていたのだが。それだけに町口さんが「教養として」アニメをどう捉えたのか、そこに強く興味を持ったため、刊行前からその内容が気になっていた。

『声優論』でもそうだったが、町口さんは声優さんの声を通じて、アニメを通じて社会との連関を、〈オタク〉としてではなく〈ポップ・カルチャーの観測者〉として読み取ろうとしていた。その姿勢に信頼に足るものがあると私は思ったため、本書の刊行を心待ちにしていたのである。*1

本書で町口は、「はじめに」において、アニメとはインフォテインメント=情報娯楽であると打ち出している。アニメとは「情報を得ることが楽しみとなるような」もの、というのである。さらに、「単に娯楽と呼ぶにはあまりにも多くの情報が付加されているので、それを解読することが楽しみの一つ」ともいう。

そこで町口はアニメを情報と娯楽の2つの側面から分析できると考え、その方法として次の2つを挙げる。

  • 情報の部分は教養(学問)で分析
  • 娯楽の部分は、視聴者が作品をどのように受容したかを研究

このうち、町口が本書で採ったのは、前者、すなわち、情報を教養で解析するアプローチである。

 

本書で提示されるスリリングな読み解き

さて、『教養としての10年代アニメ』において、章を割いて大きく扱われている作品は以下の七作品である。

たとえば第1章だと、町口は冒頭で「魔法少女まどか☆マギカ」がゼロ年代アニメの総決算である理由を述べる。セカイ系、空気系、サヴァイヴ系、ループもの、戦闘美少女といった、ゼロ年代にジャンル批評で言及されたものについて解説を加える。

その上で、「まどか☆マギカ」が10年代の新機軸となった理由も述べ、同作を源流として「絶望少女もの」とされる作品が生まれたと続ける。

1999〜2010年に深夜アニメをほとんど観なかった私は*2、この導入部を読んだことでようやく「魔法少女まどか☆マギカ」の文化的な背景を見通すことができたといえる。

さて、この章において町口は、「まどか☆マギカ」のアニメ史における位置づけ、オタク文化における位置づけだけではなく、「まどか☆マギカ」をハブとすることで、過去の文学作品(ゲーテの『ファウスト』)、可能世界論、ウェブ・アニメーションやアート・アニメーションなどのオタク文化の周辺、あるいは領域外にあるポップ・カルチャーや教養にも言及している。「まどか☆マギカ」を読み解いた上で関連性を見出だせるものを指摘していくのである。

 

オタク文化の周辺、あるいは領域外にあるポップ・カルチャーや教養への言及という点では、むしろ第2章以降で効果的に達成されており、本書の本領は第2章以降にあるように、私には思える。

第2章ではゴシック精神(文化)と中二病高二病、大二病。さらには現在のアイドル文化について。第3章では意識高い系。第4章では日本におけるファンタジーの受容のされ方とゲーム理論アスペルガーについて。第5章ではMMORPGとMMOFPS、メタ・オリエンタリズムについて。第6章ではヒトクローン個体とスマートシティ、超監視社会について。第7章ではリスク社会とコラテラル・ダメージについて。

そういった町口ならではの読み取り、そこからの指摘がスリリングであり、楽しく読むことができた。

さらにいえば、オタク文化の周辺、あるいは領域外にあるものが、作品の補助線として提示されたことで、今回取り上げられた7つの作品については、私の中で再構築された感もある。ゆえに、『教養としての10年代アニメ』は、私にとっては示唆に富む、有意義な批評に思えた。

 

気になった箇所について~AKB48セカイ系ライトノベルの特徴

一応、『教養としての10年代アニメ』を読んでいて気になった箇所を2点ほど記しておく。

  

 まず、AKB48セカイ系だとする見立てについて。

「僕」を一人称にして描かれた楽曲(歌詞)を女性アイドル(君)が歌うAKB48セカイ系だとすれば、(81-82頁)

この部分、実は町口本人による見解ではない。そういう論者がいるとして、紹介しているにすぎない。*3その上で、上記の見解について考えてみよう。

たとえばシングル曲だと「僕の太陽」「大声ダイヤモンド」「ポニーテールとシュシュ」「フライングゲット」をはじめとして、「AKB0048」第2期エンディング・テーマでもあった「この涙を君に捧ぐ」*4など、確かにAKB48には「僕」を一人称とする歌詞は多い。

とはいえど、それらの曲が「きみとぼくという小さな関係性が、世界の危機やこの世の終わりといった抽象的大問題に直結する作品」だとは私は思わない*5。そこまでのスケール感はない。「大声ダイヤモンド」で「僕たちが住むこの世界」について触れる一節があるが、それも恋に落ちたばかりの少年・少女特有の全能感というか、周囲が見えなくなっている状況に過ぎず、セカイ系だと見做すことはできないだろう。

ただ、「僕たちは戦わない」については、PVの内容も考慮すれば、それこそ「絶望少女もの」で捉えられるのではないか、とは思う。例外的に。


【MV full】 僕たちは戦わない / AKB48[公式]

 

元々の論者は、「僕」という一人称で描かれた楽曲をアイドルが歌うという状況に引っ張られているように思える。

なお、「僕」を一人称にして描かれた楽曲を、アイドルではないが女性歌手が歌ったものとして、太田裕美木綿のハンカチーフ」がある。同曲は男女の対話形式になっているが、「君」と「僕」に注目するならば、そして遠距離恋愛という関係に着目するならば、これをして「ほしのこえ」の源流だと言い切ることも可能になってしまう。

その後にBABYMETALに言及するための枕として、AKB48セカイ系という見立てがあることを紹介したのは理解できるが、この論を引くことで町口が損をしているようにも思える。町口自身のBABYMETALと中二病の見立ては頷けるものがあるだけに。

 

 

次に、町口がライトノベルの特徴として挙げた5点について。

①大人でもない子供でもない若者を読者として想定していること
②口語的表現を多用していること
③視覚に訴えるイラストを使用していること
④マンガ、アニメなど他のポップカルチャーと深い関係性があること
⑤文庫(ときに新書)が大半であること (109-110頁)

この内、4つ目についてはもっと範囲を狭めた方がよいのではないかと考える。

アニメやマンガ、特撮やゲームといったオタク・カルチャーとは確かに深い関係性があるが、たとえば音楽やファッションなどのポップ・カルチャーとはそんなに深い関係性にはないだろう。さらにいえば、00年代半ば頃からオタクたちが「オシャレサブカル(笑)」と不当に見下してきたものを真正面から扱った作品を私はまったく知らない。

私が10代だった頃からライトノベルはあったが、少なくとも私はライトノベルを読んで共感を覚えたことはない。これは、私がオタク文化を文化的出自としないからだと思われる。

「他のポップ・カルチャーと」というよりは「他のオタク・カルチャーと」とした方がより正確にライトノベルを定義できていると思われる。

同時に、1つ目についても「若者」とするのは範囲が広すぎるように私は考える。

この点については、以前、私が青春小説について述べた次のエントリの後半部とも重なる部分があると思うので、併せて読んでいただくと理解が早いかもしれない。

ue-kaname.hateblo.jp

繰り返しにはなるが、町口の挙げた特徴については間違っていないとは思うが、もうちょっと範囲を絞った方が精度が上がるのではないかと思った。

 

さいごに

2010年代におけるアニメ批評の極北として、アニメ作品の現象学的解明を目指した小森健太朗の『神、さもなくば残念。』がある。〈私〉と作品との関係性を起点として、作品論を「学的、あるいは抽象的、普遍的に論じ、理論化」しようとした意義深い書籍である。

 

 

一方で、『教養としての10年代アニメ』は、同時代のポップ・カルチャーや教養を参照することで、作品自体を再構築しようと試みた刺激的なアニメ批評になっている。

作品との向き合いから作品論を超越しようとした小森と、作品の外を参照することで作品を再構築しようとする町口と。

この違いは、『声優論』における両者のアプローチの仕方にも通じる部分があるなと、今回、『教養としての10年代アニメ』を読んでいて気づかされた次第。

 

声優論 アニメを彩る女神たち:島本須美から雨宮天まで

声優論 アニメを彩る女神たち:島本須美から雨宮天まで

 

 

なお、町口さんはあとがきで続編的内容のものを示唆されているのだが、作品として「輪るピングドラム」「PSYCHO-PASS」「進撃の巨人」の名前を挙げている。10年代のポップ・カルチャーとの対応という意味で「AKB0048」も論じてほしいな……とリクエストしたいところだ。

*1:逆にいえば、これがオタク系ライターによる〈オタク〉としての「10年代アニメ考」であれば、私は興味を持つことはなかっただろう。

*2:ゆえに、『声優論』で私は、ゼロ年代のアニメにおいて活躍した声優さんについて論じなかったわけである

*3:引用した文章は「ももいろクローバーZ(以下、ももクロ)はアイドル戦国時代を生き抜くがゆえにサヴァイヴ系だと位置づける論者がいる」と続く。

*4:歌ったのは派生ユニットでもあるNO NAME

*5:ここでいうセカイ系の定義は、町口も『教養としての10年代アニメ』でも触れているように、「〇三年以降、文芸評論で東浩紀斎藤環笠井潔らによって取り上げられはじめた結果、しだいに定義が変容し」たものである。

“青春小説”としての再定義/青春小説の再定義~萩原健太『アメリカン・グラフィティから始まった』を読んで

萩原健太さんの『アメリカン・グラフィティから始まった』(ele-king books)を読了した。

 

 

同書は、『アメリカン・グラフィティ』(監督:ジョージ・ルーカス/1973年)の劇中で流れるすべてのポップ・ソングを頭から順に1曲ずつ紹介していく解説書*1……という体裁をとっている。

 

 

アメリカン・グラフィティ ― オリジナル・サウンドトラック

アメリカン・グラフィティ ― オリジナル・サウンドトラック

 

 

まず、この構成自体が非常に面白い。どのシーンで流れたのかはもちろん、曲の詳細について、歌手について、さらには曲の受け取られ方について、多角的な解説がなされており、1973年に編まれた『アメリカン・ポップス』という2時間弱の“ソングブック”を隅々までおさらいすることができる。

 

しかも、ただ解説するだけではなく、たとえばデル・シャノンの「悲しき街角」であれば日本における邦題という文化について、バディ・ホリー&ザ・クリケッツ「ザットル・ビー・ザ・デイ」であればギター・コンボ編成について……といった具合に、ひとつのポップ・ソングを切り口に、アメリカン・ポップス/ロックンロールに多面的に迫っているのがポイント。ゆえに、本書には『アメリカン・グラフィティ』という映画を切り口にした1955年以降のアメリカ(及びその周辺)のポピュラー音楽史総ざらいという側面もある。

フランキー・ライモン&ティーンエージャーズ「恋は曲者」を切り口に、ジャクソン5、はては(1997年に発表した「MMMBop」で一世を風靡した)ハンソンまで、キッズ・グループについてざっと触れることで、フランキー・ライモンのポップス史における功績に光を当てるくだりなど、実にスリリングだ。ポップスを体系的に聴いてきた健太さんだからこその“読み方”が提示されている。

 

また、本書はアメリカン・ポップス史だけでなく、当時のアメリカの若者文化/風俗、さらには社会状況にも迫ろうと試みている。たとえば、クレスツ「シックスティーン・キャンドルズ」ではアメリカにおける「16歳」の持つ意味合いについて、フリートウッズ「ザ・グレート・インポスター」から当時の男女格差問題について……といった具合に。それらの解説は『アメリカン・グラフィティ』本編とも微妙にリンクするものである。

アメリカのポピュラー音楽史がどのような文化的背景で生まれたものなのかを解説するとともに、『アメリカン・グラフィティ』という物語の背景にあるものまでも照射するのである。

 

“青春小説”としての『アメリカン・グラフィティ

ここまで書いてきたことで、本書が『アメリカン・グラフィティ』の単なる副読本ではないことは、わかっていただけだと思う。そして、同時に、本書はアメリカのポピュラー音楽史の解説本に留まるものでもない。本書は“青春小説”としての『アメリカン・グラフィティ』の“読み方”を再定義する書籍でもあるのだ。

 

よく知られているように、映画『アメリカン・グラフィティ』は1962年の夏を舞台とする。ポップス/ロック・ファンならばご存知のとおり、この年はボブ・ディランビーチ・ボーイズ、そしてビートルズがデビューした年にあたる。

では社会的にはどうだったか。やがて社会に暗い影を落とすことになるベトナム戦争にもアメリカはまだ突入しておらず、キューバとの関係に緊張が高まる直前であり、まだまだアメリカ全体が無邪気に陽気にいられた時代……それが1962年である。

アメリカン・グラフィティ』はカリフォルニア州モデストに住む高校生たちを主人公とした“青春小説”である。青春時代を過ごした町を離れる者ととどまる者。彼らの“青春時代”の最後の一夜ともいうべき時間が、この映画では描かれている。あまりにも象徴的なテーマ。ゆえに、彼らの物語に、ケネディの暗殺、キング牧師の暗殺、そしてベトナム戦争などを経て挫折した“かつての若者たち”は、無邪気な若者でいられた頃のアメリカを見出すのである。『アメリカン・グラフィティ』とは、アメリカそのものの“青春小説”でもあるのだ――という見立ては、もはや定説であろう。

健太さんもそこは前提としており、『アメリカン・グラフィティ』をアメリカがまだ無邪気でいられた頃の物語だとは一応見做している。そこから先に一歩踏み込んで、私たちが――そう、ブライアン・ウィルソンとは違って天才ではない私たちが――無邪気でい続けることの醜悪さを指摘し、今――トランプや安倍のことばがもっともらしいものとして届いてしまう今。小林よしのりがかつて90年代に提示したような価値観がもっともらしいものとして振りかざされる今*2――『アメリカン・グラフィティ』を昔(=ある意味での栄光時代)を懐かしむ意味での“青春小説”としてではなく、“少年”から“大人”に、“少女”から“大人”になる覚悟を決める瞬間の物語としての“青春小説”として読み解こうと、提唱しているのである。

 

今まで健太さんがロックやポップスについて語るとき、無垢への憧れを賛美することが度々あった。たとえば、ビーチ・ボーイズの『ペット・サウンズ』。そんな健太さんが『アメリカン・グラフィティから始まった』の前書きを次のような文章で始めている。

 

 “いつまでも少年の瞳を持っている”とか、“無垢な少女の心を忘れない”とか。

そういう文言がともすれば誉め言葉として流通しがちな世の中ではあるけれど。どうなんだろう。ぼくにはたいして偉いこととも思えない。

 

これは転向ではない。その証拠に、その後にちゃんと「自らが理想とする表現活動のために本当に子供のような純粋さを維持しようと懸命に感性を研ぎ澄まし続ける」ことを「素晴らしいことだと思う」と続けている。だが、現状に対する危機感ゆえに、「多くの責任を放棄したまま他者に依存し、知りたくないことには耳を貸さず、子供っぽく気ままに生きてい」く者に対して声のヴォリュームを上げねばならないと考えたからこそ、前述のような強い書き方をしたのではないだろうか。

キラキラしたドリーミーなポップスを愛する者として、私たちに影を落とすものから目を逸らさずにいよう。態度を決めよう。そういうメッセージを私は読み取った。本編ラストを飾るビーチ・ボーイズ『オール・サマー・ロング』についての章。ここに込められた健太さんのメッセージが痛烈に胸に刺さる。

 

アメリカのポピュラー音楽史の“読み方”を提示し、同時に『アメリカン・グラフィティ』という“青春小説”の読み方を提示したという点で、『アメリカン・グラフィティから始まった』は非常に刺激的な書籍である。

 

青春小説とは〈途中の物語〉である

さて、大きく話は変わるが。

私はここ10年ほど青春小説というものにあまりノレなかった。いや、正確にいうならば、ここ10年ほどに書かれてきた青春小説にほとんどノレなかったのだ。

アメリカン・グラフィティ』にも、村上春樹風の歌を聴け』にも、ジョン・アーヴィング『熊を放つ』にも、もちろんJDサリンジャーキャッチャー・イン・ザ・ライ』にも心を動かされた私だが、ここ10年で書かれてきた青春小説を謳うエンタメ文学には共感できるものがほとんどなかったのである。かろうじて共感できたのは、AKB48言い訳Maybe」のPVと西尾維新の『結物語』だけである。

 


【MV full】 言い訳Maybe / AKB48 [公式]

 

結物語 (講談社BOX)

結物語 (講談社BOX)

 

 

だが、今回『アメリカン・グラフィティから始まった』を読んだことで、その理由がようやくわかった。

 

健太さんは次のように言う。

 

そう。青春というのは輝いてばかりじゃいるわけじゃない。どちらかと言えば、いや、大方の場合、ほぼほろ苦いだけのものなのだから。(53頁)

 

青春小説とは畢竟「ほろ苦さ」との向き合いである。右往左往する様が青春小説だと私は思う。物語を通じて成長する必要はない。大きな挫折を経験する必要もない。覚悟を決めようとするかどうかの方がより重要だ。そして、そこにある種の楽観がまぶされていれば、なおベターだ。

 

未練も後悔も少なからずあるけれど、それでも時は前に向かって流れ、良いものか悪いものかはともあれ、とにかく新しい物語が常に始まっていく。(250頁)

 

〈途中の物語〉と言ってもよいかもしれない。

 

いつからか、青春小説の多くは、〈クラスでイケていないグループに属する人たちの良かった探し〉〈イケていない人たちor痛みを抱えている者たちのビルドゥングス・ロマン〉に限定されるようになっているように、私は思う。限定的にすぎるのだ。

 

繰り返しになるが、『アメリカン・グラフィティ』は“少年”から“大人”に、“少女”から“大人”になる覚悟を決める瞬間の物語である。夏休みの最後の日を舞台にした〈途中の物語〉だ。だからこそ、ラストに流れる「オール・サマー・ロング」に救われる。

 

Won't be long til summer time is through
(Summer time is through)
Not for us now

 

“Not For Us Now”にある楽観に救われ、その楽観ゆえにまたぞろほろ苦さを感じるのだ。

 

ほろ苦い〈途中の物語〉だからこそ、普遍性を持った青春小説として『アメリカン・グラフィティ』は今もなお愛され続けるのである。

*1:すべての、というのがポイントで、サウンドトラックには収録されていない曲についても触れられている。

*2:それについては、拙ブログの下記エントリに詳しく書いた

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【告知】小島正樹さんの『浜中刑事の迷走と幸運』の解説を担当しました

2月7日に発売される小島正樹さんの『浜中刑事の迷走と幸運』(南雲堂、本体1,800円)の解説を書かせていただきました。

 

浜中刑事の迷走と幸運 (本格ミステリー・ワールド・スペシャル)

浜中刑事の迷走と幸運 (本格ミステリー・ワールド・スペシャル)

 

 

魅力的な謎とスケールの大きなトリックに冴えを見せる小島正樹さん。そんな小島さんの新刊は『浜中刑事の妄想と檄運』に続いて、浜中刑事を主人公とする倒叙もの。

一応、解説しておくと、倒叙ものというのは、初めに犯人視点で犯行の描写がなされ、読者は犯人と犯行過程を把握した上で読み進めるミステリのこと。「刑事コロンボ」シリーズやドラマ「古畑任三郎」シリーズ、「福家警部補」シリーズなどが倒叙に該当するので、ミステリにあまり慣れ親しんでいない方もなんとなく「ああ、あの感じね」となるのではないでしょうか。

 

あらすじはこんな感じ。

鉄柵で囲まれたフリースクールで教師が殺害された。鉄格子の嵌まった狭い居室で学園を賛美する生徒たちに犯行は不可能。凶器は学園のはるか外にある街路樹の上方にささっていた。
群馬県警捜査一課の浜中と夏木は、事件のウラに学園の闇があると考えて捜査を開始する。

 

ミステリ・ファンはもちろんのこと、そうでない方も充分楽しめるエンタメ小説だと思います。お薦めします。

 

なお、南雲堂さんのHPにも詳細が掲載されており、冒頭を立ち読みもできるようです。下記のURLからご確認くださいませ。

http://www.nanun-do.co.jp/mystery/bookworldspecial11.html

現代の、そして音楽以外にも通用する「作りかた」とは。そして、渋谷系に関する誤解について~『「ヒットソング」の作りかた』を読んで

牧村憲一さんの『「ヒットソング」の作りかた』を読了した。以下、簡単な感想を。

 

 

本書は、加藤和彦シュガーベイブ竹内まりやフリッパーズ・ギターの制作・宣伝を手がけてきた牧村憲一氏による回顧録である。

回顧録とはいえど、牧村が行ってきた「作りかた」は現代に通用するであろうものであり、陳腐な物言いにはなるが、目から鱗が落ちることしきりだ。

 

プロデューサーの仕事とは、「創る」「伝える」「つなぐ」「続ける」という四つの「つ」をする、そして、そのすべてに責任を持つことだと僕は思っています。(中略)「アーティストに問いかけること」もプロデューサーの役割だと思います。(113~114ページ)

 

雑誌がカルチャーを先導する時代は、二〇世紀で終わりました。日々、ネットの存在感が増していますが、まだコアなメディアとまでは言えません。しかし、最も伝えたいのはどういう人か、そのためにはどういう媒体にどうやって伝えてもらうのか(略)その時代に合った選択をしていくということに変わりはありません。(119ページ)

 

こういった言葉は、ポップ・ミュージックに限らず、あらゆるポップ・カルチャーに通じるところだろう。また、牧村は「自分の部屋だけでもの作りが完結する」ことの限界も指摘しているが、これもまた宅録に限らず、たとえば本作りに関しても通じるところはあるだろう。

マスに位置するいくつかのものが行き詰まっていく理由や、「ライフスタイルが多様化し、購買者・リスナーの在り方が劇的に変わってしまった今の時代」においては「三万から四、五万枚ぐらいまで」がヒットの目安となるという指摘も非常に頷けるものがある。ポップ・ミュージックの愛好家だけでなく、編集者にも読んでもらいたい一冊だ。

とはいえど、いくつか残念なポイントはある。

牧村氏にはそのつもりはないとは思うが、紙数の関係で、マスとマスでないものという切り分け方になっているように読めてしまい、もやっとした。ヒット曲を出す前の、つまりマスにたどり着く前のポップスターたちの姿をマス予備軍としてしか描けていないことには、少し寂しさを覚えた。

また、本書の内容とは直接は関係ないが、帯の文句「あの『名盤』誕生の真相を明かす。」にももやっとさせられた。読者にではなく、牧村氏に不誠実であるように感じられた。

なぜなら、牧村は「名盤」誕生の真相を語っているわけではないからだ。「名盤」が生まれる瞬間に立ち会った者として、証言を残しているにすぎないからだ。なんにでも真相があると思うとする、謎は解かれるべきという態度には窮屈さすら感じる。繰り返しになるが、牧村氏に不誠実な帯だと思う。

 

TRATTORIAレーベルは「渋谷系」の総本山ではない

ところで、本書には渋谷系に関して面白い指摘がある。

TRATTORIAレーベルを「渋谷系」音楽の総本山という向きもありますが、正確に言えばそれは間違っています。僕よりずっと若いプロデューサーが起こしたクルーエル・レコーズやエスカレーター・レコーズなどのインディーズレーベルこそがむしろ「渋谷系」の中心であったと思います。(183ページ)

 

このことについては、牧村氏はツイッターで補言するような言及を行っている。

「『渋谷系』とフリッパーズは直接は関係ありませんし、ましてやWITS、WITZのL⇔Rスパイラルライフは『渋谷系』にはまったく関係ありません。むしろ避けていたくらいです。」*1

 

「『渋谷系』という言葉が聞こえてきたのは1993年以降です。その後NHKで『渋谷系特集』があったので間違いありません。当時『渋谷系』なに?という感じで、どちらかというと後追いの方々や、記事等が寧ろ盛んに使用していたと思います。そのコピペがみなさんを惑わしたのだと思います。」

 


「直接は」というところがポイントである。

とはいえど、ここは説明が必要だろう。私なりに補足してみる。

 

まず、前提。

そもそもフリッパーズ・ギターの活動時期が1989~91年であり、「渋谷系」という言葉が世で使われメディアでも取り上げられたのが93年頃からであるため、フリッパーズ・ギター渋谷系のバンドというのは無理がある。

渋谷系」という言葉がメディアで取り上げられ始めた頃、確かにフリッパーズ・ギター渋谷系の文脈で語られることはあった。小沢くんと小山田くんが昔2人でやっていたバンドということでの語られ方。彼らの音楽、そして引用のセンスは「渋谷系」的だよねという回顧した上での語られ方だ。*2

ゆえに、リアルタイムでフリッパーズ・ギターを聴いていたような人は、「ああ、彼らって渋谷系に括られちゃうんだ」という感じで認識していたはずである。かく言う私も、小学生時代に彼らをリアルタイムで聴いていたわけだが、凡そ以上のような認識だった。*3

 

話を戻すが、回顧した上でフリッパーズ渋谷系の文脈で語るというのは、確かにあった。だが、「外野」にいる人たちの中にはその視点を説明せずに並列で語っているものもあった。実際に、地元のTSUTAYAで「渋谷系が流行っている」的なコーナーに彼らのアルバムが並べんでいるのを見たことがある。*4

それはともかくとして。1993年当時こそ2年前のことはきちんと2年前のこと、前史であるとみなされていたわけだが、20年ほどたった時点から「渋谷系」を観測した人にとっては、93年と91年は大差なく見えてしまうというのが、フリッパーズ渋谷系の問題をややこしくするポイントではないかと私は思う。

当時は外野にいた人たち(特にオタク側の人たち)がライターとして90年代サブカルを語るような状況が10年ほど続いていることも原因としてはあるとは思うが……。

*1:スパイラル・ライフに関しては、たとえば96年に出た『渋谷系元ネタディスクガイド』(太田出版)で触れられてはいたが、ここで触れることに驚く方もいるはずという断りもあったくらい。それまで渋谷系の文脈で語られてきたことはなかった。

*2:余談だが。ある意味で「渋谷系」のアティテュードを最も具現化したようなポップでキャッチーでパンクな存在、それが彼らだったわけだが、「渋谷系」という言葉が世に出た頃にはフリッパーズ・ギターは解散して2年がたっていた――という捻れは実に面白い。

*3:「もう教養になっちゃったんだ」と思った。

*4:なお、件の地元のTSUTAYAの「渋谷系が流行っている」棚には、小沢くん、ピチカートと一緒にMr.ChildrenL⇔Rスピッツも並んでいた。あれほどひどい棚は記憶にない。

【告知】「本格ミステリーワールド2017」に寄稿しました

本日発売された『本格ミステリーワールド』(南雲堂、本体1,500円)に寄稿しました。

 

本格ミステリー・ワールド

本格ミステリー・ワールド

 

 

今年は評論原稿を1本寄稿し、鼎談に1件参加しています。

 

評論原稿について

評論原稿は「To Infinity And Beyond ~ディズニーから学ぶミステリーの可能性」というタイトルで、今年ウォルト・ディズニー・カンパニー/東京ディズニー・リゾートが公開した映画、動画、そして彼らか提供してきたサービスを振り返り、本格ミステリー、中でもサイバーミステリーがそれらから学べるところがあるのではないかという内容です。

一田和樹さんの『サイバー原発トラップ』、柳井政和さんの『裏切りのプログラム』、そしてゲームアプリ「Lifeline:クライシス・ライン」(3 Minute Games)について振れています。

 

原発サイバートラップ: リアンクール・ランデブー

原発サイバートラップ: リアンクール・ランデブー

 

 

裏切りのプログラム ハッカー探偵 鹿敷堂桂馬

裏切りのプログラム ハッカー探偵 鹿敷堂桂馬

 

 

Lifeline:クライシス・ライン

Lifeline:クライシス・ライン

  • 3 Minute Games, LLC
  • ゲーム
  • ¥240

 

なお、次の動画は私の論考でポイントとなる動画なのですが、ひょっとすると本が出る頃には削除されている可能性があります(ディズニー・シーでのハロウィン・イベントが終了しているため)。もし可能であれば、今のうち観ておいていただければ幸いです。できれば、スマホで。

 


ディズニーヴィランズ/Disney villains2016 スペシャル動画 東京ディズニーシー

 

ところで、「なぜいきなりディズニー?」という意見はあるかと思われます。
これについて説明いたします。

 

私は本格ミステリーを本格ジャンルの枠内のみで考えるのではなく、ポップカルチャーとして考えることを心がけております。これは、『本格ミステリーワールド2012』で私がはじめてミステリーについての原稿を書いて以来、一環して行ってきたことでもあります。

もっと言いますと、新本格に意識的に触れるようになった1990年から、ミステリーとしてよりも同時代のポップカルチャーとして新本格に慣れ親しんできた、というのが実情です。
これは、ポピュラー音楽であろうと、ファッションであろうと、ゲームであろうと、漫画であろうと、アニメであろうと、そう。そのジャンルがポップカルチャーとしてどういう立ち位置にあるのか、を常に意識して楽しんできました。

 

90年代渋谷系はDJ的な感覚が根付いていたという話があります*1。そして、渋谷系直撃世代の私にとっては〈ジャンルを横断して俯瞰する感覚〉〈サンプリングして1つの流れを構築する感覚〉というのはごくごく当たり前のこと。ゆえに、繰り返しになりますが、新本格も、本格ミステリーもポップカルチャーとしてどういう立ち位置にあるかを見極めながら、私は触れてきたわけです。

 

……という前提がある以上、本格ミステリーと他のポップカルチャーとの連関を読み取ろうというのは当然のことでして、今回はディズニーを選びました。
ディズニーを比較する対象として選んだのは、端的にいえば、ディズニーがエンターテインメントの保守本流にあり、そしてもっともグローバル化に成功したエンターテイメントだからです。ドメスティックなものではないからです。

「To Infinity And Beyond ~ディズニーから学ぶミステリーの可能性」は、そうした背景で書かれたものです。*2

 

余談ですが、サイバーミステリの最前線、あるいはインターネット史やサイバーセキュリティ史との対応についてご興味のある方は、下記のエントリもご参照ください。

 

ue-kaname.hateblo.jp

 

鼎談企画について

鼎談は「<黄金の本格>を通して見る、本格ミステリー十年史」というテーマで、参加者は小森健太朗さん、深水黎一郎さん、そして私です。

今年で10年目を迎える『本格ミステリーワールド』。同誌が選定する〈黄金の本格〉全八九作のラインナップを踏まえて、ここ10年間の本格ミステリーを振り返ろうという内容です。

2007年度~2013年度まで〈黄金の本格〉選考委員を勤めた小森さん、来年で作家生活10周年を迎える深水さんとともに、以下の4つのテーマについて語りました。


しかし、今回〈黄金の本格〉のラインナップを見直していて面白いなと思ったのは、投票形式で決まる『本格ミステリ・ベスト10』の上位10作品とそこまで被っていなかったこと。

たとえば、〈黄金の本格〉に選ばれた作品のうち、『本格ミステリ・ベスト10』のトップ10にもランクインした作品の数は以下のようになります。パーセンテージは、その年の〈黄金の本格〉の中で、『本格ミステリ・ベスト10』の上位10作にランクインした作品の割合です。

 

2007年度 4作品(黄金の本格は13作品) 31%
2008年度 6作品(黄金の本格は9作品) 67%
2009年度 4作品(黄金の本格は10作品) 40%
2010年度 2作品(黄金の本格は8作品) 25%
2011年度 3作品(黄金の本格は8作品) 38%
2012年度 3作品(黄金の本格は8作品) 38%
2013年度 3作品(黄金の本格は6作品) 50%
2014年度 3作品(黄金の本格は8作品) 38%
2015年度 2作品(黄金の本格は10作品) 20%
2016年度 7作品(黄金の本格は10作品) 70%

 

毎年年末に本格ミステリについてのムック本が2冊出るとして、選出方法に違いはあるものの優れた作品をはっきり呈示しようという企画が両方にあったとして、両方の結果が大差ないものであることほど面白くないことはないと思うわけですよ。カラーの違いがあるからこそ面白い。

たとえば、「ロッキング・オン」のアルバム・オブ・ザ・イヤーと、「ミュージックマガジン」の「ベストアルバム◯◯◯◯」の〈ロック(アメリカ・カナダ)部門〉〈ロック(イギリス)部門〉は、顔ぶれが異なっていた方が面白いという話。イベント的な意味で盛り上がるわけです。一方で、両方に顔を出しているものでも、高く評価されているポイントが異なっていたりして、そこも面白いわけですね。

まあ、身も蓋もない話をすると、違いがある方が健全という話もありますが。

それはさておき、〈黄金の本格ミステリー〉と「本格ミステリベスト10」の上位10作品がそこまで被っていないということにはほっとしましたし、こうでなくちゃと思ったものです。

 

さいごに

話が長くなりました。

とにかく、『本格ミステリーワールド2015』(南雲堂)は12月17日発売です。目次や詳細はこちらをご覧くださいませ。よろしくお願いいたします。

 

 

*1:私の見立てでは、DJ的な感覚というのは、渋谷系に限った話ではなく、サブカル層に根付いた感覚だと思います。

*2:なお、ご存知だとは思いますが、「To Infinity And Beyond」というのは映画『トイ・ストーリー』におけるバズ・ライトイヤーの台詞です。日本語訳は「無限の彼方へ さあ行くぞ!」