【告知】明利英司さん『憑きもどり』の解説を担当しました

2月28日に発売された明利英司さんの『憑きもどり』(さんが出版、本体500円)の解説を書かせていただきました。

 

憑きもどり

憑きもどり

 

 

島田荘司選 第六回ばらのまち福山ミステリー文学新人賞優秀作に選ばれた『ビリーバーの賛歌』を改題した『旧校舎は茜色の迷宮』で2014年に本格的な作家デビューを果たした明利さん。

2016年にはホラー風味もあるミステリ『幽歴探偵アカイバラ』(講談社ノベルス)を発表し、書き下ろしの原作『指令ゲームX』がドラマ化されるなど活躍を続けている彼の新作は、ミステリ風味もあるホラー小説。

 

あらすじはこんな感じです。

 

高校生の長江美里は家庭教師のアルバイトをしていた。ある日、彼女の教え子である原田茜が深夜に刃物で他殺される。現場には不思議な文字が残されていた…。それから次々と起こる通り魔事件、被害者の共通点…。一体誰が?何の為に?茜が殺された夜、の真実とは…。瑞々しい高校生活を脅かす、謎と恐怖の旋律。

 

ホラー小説としても面白いですが、ミステリに深く親しんでいればいるほど、足元を掬われかねないのでは。かく言う私も、明利の意図を読み取って先回りできたと確信していたところで、思わぬしっぺ返しをくらってしまいました。お薦めです。

 

なお、『憑きもどり』は映画化も決まっているそうで、劇場での公開とDVDの発売が予定されているようです。

【告知】『声優論』電子書籍版刊行のお知らせ。そして〈続編〉について。

『声優論~アニメを彩る女神たち』(河出書房新社)が電子書籍化されることになりました。3/3(金)に配信予定、本体価格は1700円(税込1836円)です。

 

声優論 アニメを彩る女神たち 島本須美から雨宮天まで

声優論 アニメを彩る女神たち 島本須美から雨宮天まで

 

 

内容に大きく目立った変化はありませんが、誤植の修正が反映されております。

以前同人誌で発表したNO NAME論(「AKB0048論」*1)をブラッシュアップした形で付け加えたいところではありましたが、そこはそれ。ほとんどそのままの形でリリースします。

未読の方はこの機会にぜひお手にとってご覧ください。よろしくお願い申し上げます。

 

本書における渋谷系に関する記述について

さて、刊行当初から賛否両論あった本書ですが、ひとつだけ説明した方がよいのではと思ったことがあり、ここで説明したいと思います。

 

町口さんの花澤香菜論の三章1段落目について、以下のようにブログで指摘された方がいます。

そしてこの段落で書かれていることといえば渋谷系の極めて雑な説明だけである。渋谷系いいたいだけの模様だ。


ここで、町口さんが当該箇所でどう書いたかといえば、

この渋谷系とは、九〇年代にフリッパーズ・ギター、ピチカート・ファイブ、コーネリアスオリジナル・ラブカヒミ・カリィなど洋楽テイストのあるアーティストたちを総称したもので、とりわけカヒミ・カリィは和製フランシス・ギャルと呼ばれ、

 

まず、前提を確認します。
私は90年代のポップ・カルチャーを文化的出自とします。

そして、件のブロガーはいわゆるサブカル者を「サブカルクズ」呼ばわりされています。

ゆえに、件のブロガーは私の敵であるということで話を進めさせていただきます。


さて、町口さんの説明は渋谷系直撃世代のサブカル者である私としてもひっかかりを覚える箇所ではありました。雑だとは思いませんが、表面的にすぎると思ったのです。
せめてHMV渋谷店とか、そういう単語も欲しいところ。ただ、そうなると渋谷系に関する説明だけで文字数を多く費やしてしまいます。第一、本書は渋谷系に関する書籍ではないですし。であれば、表面だけはなぞれているのだし、この説明でよしとするか……というのが、最初に原稿に目を通した際に私が考えたことです。
何より、町口さんの渋谷系に対する説明は、当時を知らない人にもそれなりに伝えられるものだと読めたのです。

表面的な部分だけを抽出すれば、「洋楽テイストのあるアーティストたちを総称したもの」というのは、そう誤ってもいません。そのものズバリを言い当てているとは思いませんが、なぞることはできているのです。もっといえば、そういう解釈をFM雑誌で90年代半ばの時点で見かけた記憶もあります。

余談ですが、私自身の渋谷系の定義みたいなものは、下記エントリで示したように、特定のアーティストを指すのではなく、アティチュード(サンプリング感覚とでもいうべきもの。そして、それは送り手と受け手双方に共有されていた)やDJ感覚、おしゃれであることへの意識(強迫観念めいてもいた)だと思っています。。

ue-kaname.hateblo.jp

 

話を戻します。

ここで、もうちょっとだけ考えてみます。
若杉実さんの『渋谷系』(シンコー・ミュージック・エンターテイメント)にある山崎二郎さんの証言として、渋谷系は「あくまで外野のことば」ともあります。私の実感としてもそれに近いです。

 

私から見れば、町口さんは渋谷系の外野にいた方です。
外野にいた人から見れば渋谷系が「洋楽テイストのあるアーティストたちを総称したもの」には見えるだろうなとは思いますし、ならばこういう説明(=表面的にすぎる説明)になっても仕方ないし、受け入れるしかないなと考えます。そもそも、そういう扱いを受けてきたのも渋谷系じゃない? と。FM雑誌に載るような渋谷系の定義なんて、まさにそう(=表面的)じゃない? と。

ゆえに、町口さんの渋谷系に関しての説明を持ち出して「雑な説明」と批判するのは、90年代ポップ・カルチャーをあまりわかっていないように私には思えます。

 

続編について

最後に。たまに訊かれることではありますが、『声優論』の〈2〉はあるのか?という話。

はっきり申し上げます。〈続き〉としての〈2〉はありません。

 

一時期は男声編(男性編ではなく、男声編。男性声優さんだけでなく、少年声も演じられる女性声優さんも含めて男声編)を構想していたのですが、私がオタク文化に対する興味を完全に失ってしまったため、これ以上踏み込むつもりは現時点ではございません。

 

ただ、ディズニー作品に限ったものであれば続編はやりたいとは思っております。

すなわち、その時点で執筆陣もガラリと変わることになります。

 

どちらにせよ、純然たる〈2〉はない、ということで回答とさせてください。

*1:ご興味のある方はこちらをご覧ください。

ue-kaname.hateblo.jp

アニメを教養として観るとは?~町口哲生『教養としての10年代アニメ』を読んで

『声優論』の共著者でもある町口哲生さんの『教養としての10年代アニメ』(ポプラ社)を読み終えた。

 

(117)教養としての10年代アニメ

(117)教養としての10年代アニメ

 

 

昨年、「受講条件は週20本の深夜アニメ視聴」というニュース記事で話題にもなった、近畿大学の講師でもある町口さんの新刊である。

bylines.news.yahoo.co.jp

 

町口が採用したアニメへのアプローチとは

私は2011~15年にかけての約5年間、深夜アニメを週に30本以上チェックしていた。ミステリや音楽などのポップ・カルチャー、それもユース・カルチャーとの連関をアニメに見出せるのではないかと思い、いわば「教養」としてアニメを観ていたのだが。それだけに町口さんが「教養として」アニメをどう捉えたのか、そこに強く興味を持ったため、刊行前からその内容が気になっていた。

『声優論』でもそうだったが、町口さんは声優さんの声を通じて、アニメを通じて社会との連関を、〈オタク〉としてではなく〈ポップ・カルチャーの観測者〉として読み取ろうとしていた。その姿勢に信頼に足るものがあると私は思ったため、本書の刊行を心待ちにしていたのである。*1

本書で町口は、「はじめに」において、アニメとはインフォテインメント=情報娯楽であると打ち出している。アニメとは「情報を得ることが楽しみとなるような」もの、というのである。さらに、「単に娯楽と呼ぶにはあまりにも多くの情報が付加されているので、それを解読することが楽しみの一つ」ともいう。

そこで町口はアニメを情報と娯楽の2つの側面から分析できると考え、その方法として次の2つを挙げる。

  • 情報の部分は教養(学問)で分析
  • 娯楽の部分は、視聴者が作品をどのように受容したかを研究

このうち、町口が本書で採ったのは、前者、すなわち、情報を教養で解析するアプローチである。

 

本書で提示されるスリリングな読み解き

さて、『教養としての10年代アニメ』において、章を割いて大きく扱われている作品は以下の七作品である。

たとえば第1章だと、町口は冒頭で「魔法少女まどか☆マギカ」がゼロ年代アニメの総決算である理由を述べる。セカイ系、空気系、サヴァイヴ系、ループもの、戦闘美少女といった、ゼロ年代にジャンル批評で言及されたものについて解説を加える。

その上で、「まどか☆マギカ」が10年代の新機軸となった理由も述べ、同作を源流として「絶望少女もの」とされる作品が生まれたと続ける。

1999〜2010年に深夜アニメをほとんど観なかった私は*2、この導入部を読んだことでようやく「魔法少女まどか☆マギカ」の文化的な背景を見通すことができたといえる。

さて、この章において町口は、「まどか☆マギカ」のアニメ史における位置づけ、オタク文化における位置づけだけではなく、「まどか☆マギカ」をハブとすることで、過去の文学作品(ゲーテの『ファウスト』)、可能世界論、ウェブ・アニメーションやアート・アニメーションなどのオタク文化の周辺、あるいは領域外にあるポップ・カルチャーや教養にも言及している。「まどか☆マギカ」を読み解いた上で関連性を見出だせるものを指摘していくのである。

 

オタク文化の周辺、あるいは領域外にあるポップ・カルチャーや教養への言及という点では、むしろ第2章以降で効果的に達成されており、本書の本領は第2章以降にあるように、私には思える。

第2章ではゴシック精神(文化)と中二病高二病、大二病。さらには現在のアイドル文化について。第3章では意識高い系。第4章では日本におけるファンタジーの受容のされ方とゲーム理論アスペルガーについて。第5章ではMMORPGとMMOFPS、メタ・オリエンタリズムについて。第6章ではヒトクローン個体とスマートシティ、超監視社会について。第7章ではリスク社会とコラテラル・ダメージについて。

そういった町口ならではの読み取り、そこからの指摘がスリリングであり、楽しく読むことができた。

さらにいえば、オタク文化の周辺、あるいは領域外にあるものが、作品の補助線として提示されたことで、今回取り上げられた7つの作品については、私の中で再構築された感もある。ゆえに、『教養としての10年代アニメ』は、私にとっては示唆に富む、有意義な批評に思えた。

 

気になった箇所について~AKB48セカイ系ライトノベルの特徴

一応、『教養としての10年代アニメ』を読んでいて気になった箇所を2点ほど記しておく。

  

 まず、AKB48セカイ系だとする見立てについて。

「僕」を一人称にして描かれた楽曲(歌詞)を女性アイドル(君)が歌うAKB48セカイ系だとすれば、(81-82頁)

この部分、実は町口本人による見解ではない。そういう論者がいるとして、紹介しているにすぎない。*3その上で、上記の見解について考えてみよう。

たとえばシングル曲だと「僕の太陽」「大声ダイヤモンド」「ポニーテールとシュシュ」「フライングゲット」をはじめとして、「AKB0048」第2期エンディング・テーマでもあった「この涙を君に捧ぐ」*4など、確かにAKB48には「僕」を一人称とする歌詞は多い。

とはいえど、それらの曲が「きみとぼくという小さな関係性が、世界の危機やこの世の終わりといった抽象的大問題に直結する作品」だとは私は思わない。*5そこまでのスケール感はない。「大声ダイヤモンド」で「僕たちが住むこの世界」について触れる一節があるが、それも恋に落ちたばかりの少年・少女特有の全能感というか、周囲が見えなくなっている状況に過ぎず、セカイ系だと見做すことはできないだろう。

ただ、「僕たちは戦わない」については、PVの内容も考慮すれば、それこそ「絶望少女もの」で捉えられるのではないか、とは思う。例外的に。


【MV full】 僕たちは戦わない / AKB48[公式]

 

元々の論者は、「僕」という一人称で描かれた楽曲をアイドルが歌うという状況に引っ張られているように思える。

なお、「僕」を一人称にして描かれた楽曲を、アイドルではないが女性歌手(君)が歌ったものとして、太田裕美木綿のハンカチーフ」がある。同曲は男女の対話形式になっているが、「君」と「僕」に注目するならば、そして遠距離恋愛という関係に着目するならば、これをして「ほしのこえ」の源流だと言い切ることも可能になってしまう。

その後にBABYMETALに言及するための枕として、AKB48セカイ系という見立てがあることを紹介したのは理解できるが、この論を引くことで町口が損をしているようにも思える。町口自身のBABYMETALと中二病の見立ては頷けるものがあるだけに。

 

 

次に、町口がライトノベルの特徴として挙げた5点について。

①大人でもない子供でもない若者を読者として想定していること
②口語的表現を多用していること
③視覚に訴えるイラストを使用していること
④マンガ、アニメなど他のポップカルチャーと深い関係性があること
⑤文庫(ときに新書)が大半であること (109-110頁)

この内、4つ目についてはもっと範囲を狭めた方がよいのではないかと考える。

アニメやマンガ、特撮やゲームといったオタク・カルチャーとは確かに深い関係性があるが、たとえば音楽やファッションなどのポップ・カルチャーとはそんなに深い関係性にはないだろう。さらにいえば、00年代半ば頃からオタクたちが「オシャレサブカル(笑)」と不当に見下してきたものを真正面から扱った作品を私はまったく知らない。

私が10代だった頃からライトノベルはあったが、少なくとも私はライトノベルを読んで共感を覚えたことはない。これは、私がオタク文化を文化的出自としないからだと思われる。

「他のポップ・カルチャーと」というよりは「他のオタク・カルチャーと」とした方がより正確にライトノベルを定義できていると思われる。

同時に、1つ目についても「若者」とするのは範囲が広すぎるように私は考える。

この点については、以前、私が青春小説について述べた次のエントリの後半部とも重なる部分があると思うので、併せて読んでいただくと理解が早いかもしれない。

ue-kaname.hateblo.jp

繰り返しにはなるが、町口の挙げた特徴については間違っていないとは思うが、もうちょっと範囲を絞った方が精度が上がるのではないかと思った。

 

さいごに

2010年代におけるアニメ批評の極北として、アニメ作品の現象学的解明を目指した小森健太朗の『神、さもなくば残念。』がある。〈私〉と作品との関係性を起点として、作品論を「学的、あるいは抽象的、普遍的に論じ、理論化」しようとした意義深い書籍である。

 

 

一方で、『教養としての10年代アニメ』は、同時代のポップ・カルチャーや教養を参照することで、作品自体を再構築しようと試みた刺激的なアニメ批評になっている。

作品との向き合いから作品論を超越しようとした小森と、作品の外を参照することで作品を再構築しようとする町口と。

この違いは、『声優論』における両者のアプローチの仕方にも通じる部分があるなと、今回、『教養としての10年代アニメ』を読んでいて気づかされた次第。

 

声優論 アニメを彩る女神たち:島本須美から雨宮天まで

声優論 アニメを彩る女神たち:島本須美から雨宮天まで

 

 

なお、町口さんはあとがきで続編的内容のものを示唆されているのだが、作品として「輪るピングドラム」「PSYCHO-PASS」「進撃の巨人」の名前を挙げている。10年代のポップ・カルチャーとの対応という意味で「AKB0048」も論じてほしいな……とリクエストしたいところだ。

*1:逆にいえば、これがオタク系ライターによる〈オタク〉としての「10年代アニメ考」であれば、私は興味を持つことはなかっただろう。

*2:ゆえに、『声優論』で私は、ゼロ年代のアニメにおいて活躍した声優さんについて論じなかったわけである

*3:引用した文章は「ももいろクローバーZ(以下、ももクロ)はアイドル戦国時代を生き抜くがゆえにサヴァイヴ系だと位置づける論者がいる」と続く。

*4:歌ったのは派生ユニットでもあるNO NAME

*5:ここでいうセカイ系の定義は、町口も『教養としての10年代アニメ』でも触れているように、「〇三年以降、文芸評論で東浩紀斎藤環笠井潔らによって取り上げられはじめた結果、しだいに定義が変容し」たものである。

More Today Than Yesterday [January 2017]

私は日々、twitterで本やCDや映画の感想をよくツイートしているのだが。

そのままネットの海に放流しておくのも無責任ではないかと思ったので、そういった感想を1ヶ月ごとにまとめてみることにした。というわけで、2017年1月のツイートから。

 

芦辺拓『ダブル・ミステリ』 

 

 

 

 

西尾維新『結物語』
結物語 (講談社BOX)

結物語 (講談社BOX)

 

 

 

 

七尾与史『トイプー警察メグレ 神隠しと消えた殺意の謎』

 

 

柴田勝家『ゴーストケース 心霊科学捜査官』

 

 

坂田学『木の奥』
木の奥

木の奥

 

 

 

アナとエルサのフローズン・フォーエバー

www.tokyodisneyresort.jp


NEWキャッスルプロジェクション「フローズンフォーエバー」 15秒

 

 

[おまけ]レコード屋でレコードを買おう

“青春小説”としての再定義/青春小説の再定義~萩原健太『アメリカン・グラフィティから始まった』を読んで

萩原健太さんの『アメリカン・グラフィティから始まった』(ele-king books)を読了した。

 

 

同書は、『アメリカン・グラフィティ』(監督:ジョージ・ルーカス/1973年)の劇中で流れるすべてのポップ・ソングを頭から順に1曲ずつ紹介していく解説書*1……という体裁をとっている。

 

 

アメリカン・グラフィティ ― オリジナル・サウンドトラック

アメリカン・グラフィティ ― オリジナル・サウンドトラック

 

 

まず、この構成自体が非常に面白い。どのシーンで流れたのかはもちろん、曲の詳細について、歌手について、さらには曲の受け取られ方について、多角的な解説がなされており、1973年に編まれた『アメリカン・ポップス』という2時間弱の“ソングブック”を隅々までおさらいすることができる。

 

しかも、ただ解説するだけではなく、たとえばデル・シャノンの「悲しき街角」であれば日本における邦題という文化について、バディ・ホリー&ザ・クリケッツ「ザットル・ビー・ザ・デイ」であればギター・コンボ編成について……といった具合に、ひとつのポップ・ソングを切り口に、アメリカン・ポップス/ロックンロールに多面的に迫っているのがポイント。ゆえに、本書には『アメリカン・グラフィティ』という映画を切り口にした1955年以降のアメリカ(及びその周辺)のポピュラー音楽史総ざらいという側面もある。

フランキー・ライモン&ティーンエージャーズ「恋は曲者」を切り口に、ジャクソン5、はては(1997年に発表した「MMMBop」で一世を風靡した)ハンソンまで、キッズ・グループについてざっと触れることで、フランキー・ライモンのポップス史における功績に光を当てるくだりなど、実にスリリングだ。ポップスを体系的に聴いてきた健太さんだからこその“読み方”が提示されている。

 

また、本書はアメリカン・ポップス史だけでなく、当時のアメリカの若者文化/風俗、さらには社会状況にも迫ろうと試みている。たとえば、クレスツ「シックスティーン・キャンドルズ」ではアメリカにおける「16歳」の持つ意味合いについて、フリートウッズ「ザ・グレート・インポスター」から当時の男女格差問題について……といった具合に。それらの解説は『アメリカン・グラフィティ』本編とも微妙にリンクするものである。

アメリカのポピュラー音楽史がどのような文化的背景で生まれたものなのかを解説するとともに、『アメリカン・グラフィティ』という物語の背景にあるものまでも照射するのである。

 

“青春小説”としての『アメリカン・グラフィティ

ここまで書いてきたことで、本書が『アメリカン・グラフィティ』の単なる副読本ではないことは、わかっていただけだと思う。そして、同時に、本書はアメリカのポピュラー音楽史の解説本に留まるものでもない。本書は“青春小説”としての『アメリカン・グラフィティ』の“読み方”を再定義する書籍でもあるのだ。

 

よく知られているように、映画『アメリカン・グラフィティ』は1962年の夏を舞台とする。ポップス/ロック・ファンならばご存知のとおり、この年はボブ・ディランビーチ・ボーイズ、そしてビートルズがデビューした年にあたる。

では社会的にはどうだったか。やがて社会に暗い影を落とすことになるベトナム戦争にもアメリカはまだ突入しておらず、キューバとの関係に緊張が高まる直前であり、まだまだアメリカ全体が無邪気に陽気にいられた時代……それが1962年である。

アメリカン・グラフィティ』はカリフォルニア州モデストに住む高校生たちを主人公とした“青春小説”である。青春時代を過ごした町を離れる者ととどまる者。彼らの“青春時代”の最後の一夜ともいうべき時間が、この映画では描かれている。あまりにも象徴的なテーマ。ゆえに、彼らの物語に、ケネディの暗殺、キング牧師の暗殺、そしてベトナム戦争などを経て挫折した“かつての若者たち”は、無邪気な若者でいられた頃のアメリカを見出すのである。『アメリカン・グラフィティ』とは、アメリカそのものの“青春小説”でもあるのだ――という見立ては、もはや定説であろう。

健太さんもそこは前提としており、『アメリカン・グラフィティ』をアメリカがまだ無邪気でいられた頃の物語だとは一応見做している。そこから先に一歩踏み込んで、私たちが――そう、ブライアン・ウィルソンとは違って天才ではない私たちが――無邪気でい続けることの醜悪さを指摘し、今――トランプや安倍のことばがもっともらしいものとして届いてしまう今。小林よしのりがかつて90年代に提示したような価値観がもっともらしいものとして振りかざされる今*2――『アメリカン・グラフィティ』を昔(=ある意味での栄光時代)を懐かしむ意味での“青春小説”としてではなく、“少年”から“大人”に、“少女”から“大人”になる覚悟を決める瞬間の物語としての“青春小説”として読み解こうと、提唱しているのである。

 

今まで健太さんがロックやポップスについて語るとき、無垢への憧れを賛美することが度々あった。たとえば、ビーチ・ボーイズの『ペット・サウンズ』。そんな健太さんが『アメリカン・グラフィティから始まった』の前書きを次のような文章で始めている。

 

 “いつまでも少年の瞳を持っている”とか、“無垢な少女の心を忘れない”とか。

そういう文言がともすれば誉め言葉として流通しがちな世の中ではあるけれど。どうなんだろう。ぼくにはたいして偉いこととも思えない。

 

これは転向ではない。その証拠に、その後にちゃんと「自らが理想とする表現活動のために本当に子供のような純粋さを維持しようと懸命に感性を研ぎ澄まし続ける」ことを「素晴らしいことだと思う」と続けている。だが、現状に対する危機感ゆえに、「多くの責任を放棄したまま他者に依存し、知りたくないことには耳を貸さず、子供っぽく気ままに生きてい」く者に対して声のヴォリュームを上げねばならないと考えたからこそ、前述のような強い書き方をしたのではないだろうか。

キラキラしたドリーミーなポップスを愛する者として、私たちに影を落とすものから目を逸らさずにいよう。態度を決めよう。そういうメッセージを私は読み取った。本編ラストを飾るビーチ・ボーイズ『オール・サマー・ロング』についての章。ここに込められた健太さんのメッセージが痛烈に胸に刺さる。

 

アメリカのポピュラー音楽史の“読み方”を提示し、同時に『アメリカン・グラフィティ』という“青春小説”の読み方を提示したという点で、『アメリカン・グラフィティから始まった』は非常に刺激的な書籍である。

 

青春小説とは〈途中の物語〉である

さて、大きく話は変わるが。

私はここ10年ほど青春小説というものにあまりノレなかった。いや、正確にいうならば、ここ10年ほどに書かれてきた青春小説にほとんどノレなかったのだ。

アメリカン・グラフィティ』にも、村上春樹風の歌を聴け』にも、ジョン・アーヴィング『熊を放つ』にも、もちろんJDサリンジャーキャッチャー・イン・ザ・ライ』にも心を動かされた私だが、ここ10年で書かれてきた青春小説を謳うエンタメ文学には共感できるものがほとんどなかったのである。かろうじて共感できたのは、AKB48言い訳Maybe」のPVと西尾維新の『結物語』だけである。

 


【MV full】 言い訳Maybe / AKB48 [公式]

 

結物語 (講談社BOX)

結物語 (講談社BOX)

 

 

だが、今回『アメリカン・グラフィティから始まった』を読んだことで、その理由がようやくわかった。

 

健太さんは次のように言う。

 

そう。青春というのは輝いてばかりじゃいるわけじゃない。どちらかと言えば、いや、大方の場合、ほぼほろ苦いだけのものなのだから。(53頁)

 

青春小説とは畢竟「ほろ苦さ」との向き合いである。右往左往する様が青春小説だと私は思う。物語を通じて成長する必要はない。大きな挫折を経験する必要もない。覚悟を決めようとするかどうかの方がより重要だ。そして、そこにある種の楽観がまぶされていれば、なおベターだ。

 

未練も後悔も少なからずあるけれど、それでも時は前に向かって流れ、良いものか悪いものかはともあれ、とにかく新しい物語が常に始まっていく。(250頁)

 

〈途中の物語〉と言ってもよいかもしれない。

 

いつからか、青春小説の多くは、〈クラスでイケていないグループに属する人たちの良かった探し〉〈イケていない人たちor痛みを抱えている者たちのビルドゥングス・ロマン〉に限定されるようになっているように、私は思う。限定的にすぎるのだ。

 

繰り返しになるが、『アメリカン・グラフィティ』は“少年”から“大人”に、“少女”から“大人”になる覚悟を決める瞬間の物語である。夏休みの最後の日を舞台にした〈途中の物語〉だ。だからこそ、ラストに流れる「オール・サマー・ロング」に救われる。

 

Won't be long til summer time is through
(Summer time is through)
Not for us now

 

“Not For Us Now”にある楽観に救われ、その楽観ゆえにまたぞろほろ苦さを感じるのだ。

 

ほろ苦い〈途中の物語〉だからこそ、普遍性を持った青春小説として『アメリカン・グラフィティ』は今もなお愛され続けるのである。

*1:すべての、というのがポイントで、サウンドトラックには収録されていない曲についても触れられている。

*2:それについては、拙ブログの下記エントリに詳しく書いた

ue-kaname.hateblo.jp