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『教場』から読み取った「ソース至上主義」について

長岡弘樹の連作短編集『教場』という作品をどう読むか。ここ数週間、私を悩ませていたのがそれだった。

教場

教場


 ご存知のように、『教場』は警察学校を舞台にした〈警察小説〉なのだが、第14回本格ミステリ大賞の小説部門で最終候補作に選ばれているように〈本格ミステリ〉としても高く評価されている作品だ。ただ、あくまで私の個人的な感想ではあるが、私は『教場』は〈本格〉としては弱く、決定的な瑕を抱えているようにしか読めなかった。意外な謎があるわけでもない、意外な解決があるわけでもない。そして、意外な推理があるわけでもない。私は連作短編集『教場』が〈本格ミステリ〉として高い水準にあるとは思えなかったのだ。
 しかし、現時点で私は〈本格ミステリ〉としての『教場』に対する評価をやや変えており、初読時は瑕としてしか認識できなかったものが、実はその瑕ゆえに『教場』はある意味で10年代を象徴するような本格ミステリになっているのではないか、そのように考えるようになったのだ。初読時と今と。私の中でどのように『教場』の読まれ方は変わったのか。そこを今回は論じていきたい。


 それでは、私が何をして『教場』には〈本格ミステリ〉として瑕があると判断したのか。そこをまずは明らかにしたい。そのためにまず、『教場』における〈探偵〉と〈探偵の振る舞い〉の関係について論じることにする。
 『教場』では、第三話「蟻穴」と第六話「背水」を除けば、それぞれの話数は以下のような構図をとっている。各話数にはひとり、話の中心となる学生がいる。そして、その学生には〈真実〉だと思い込んでいる認識Aがある。学生はAこそが〈事実〉であるという前提で動く。その結果、他の学生との間でなんらかのトラブルが生じてしまい、そこで学生は挫折に近い経験をする。そのタイミングで教官・風間が登場する。この風間が『教場』における〈探偵〉である。彼はBこそが〈事実〉であり真相であると伝える。そして、なぜBが真相であるかを解明する――これが『教場』における〈探偵〉と〈探偵の振る舞い〉である。
 風間は学生内にいるスパイなど何らかの手段により、予め真相Bを知っている。そういう意味では、メタな領域に近い場所にいる〈探偵〉である。風間は〈探偵〉として「なぜBが真実であるか」を説明するのだが、「なぜAが真実ではありえないのか」については説明しようともしないし(きっかけとなる「なぜAが真実ではないと〈探偵〉は考えたのか」についても説明はない)*1、「なぜ唯一Bこそが真実でなければならないのか」についても十分に説明できていない。私は〈探偵〉のその〈振る舞い〉ゆえに、『教場』は〈本格〉としては高い水準にはないと考えたのだ。それはなぜか。読者に提示されてはいないものの、「Aが真実ではありえないのか」という謎が残ったままになっているからだ(確かにAが真実ではありえなかったことは結果として小説内で示されているのだが、なぜ真実ではないのかということについては論理的に示されていない)。新たに生まれた謎を言語化・提示することもなく放置しようとする態度。そこに欺瞞を感じたからだ。もっといえば、その謎を解明しようとしない〈探偵〉や学生には、近代合理主義的な〈主体〉がないと判断せざるをえず、〈本格〉の精神性を支える近代合理主義がここにはないように感じられたのだ。
 『教場』を〈本格〉として捉えた場合そこに瑕があるのでは、という私の評価はいまだ変わらないのだが、それからしばらく思考を重ねる内に、風間の〈探偵としての振る舞い〉がネット上にける「ソース至上主義」に通じるものがあることに気づくに至り、この瑕は単なる瑕ではなく10年代を気分的に象徴しているのではないか、そのように考えれば『教場』は二〇一三年を代表する作品として考えることができるのではないかと思うに至ったのである。

 もともとは2ちゃんねるが発祥ではあるが、ネット上の議論ではソースが開示された意見(レス)は信用性が極めて高いという見方をされる。とりあえずもっともらしいソースさえ示すことができれば、その発言は正しいと受け取られがちなのだ。ツイッターなどのSNSが身近になった現代においては、このソース至上主義にも変異が生じており、発言主が著名人であればその著名性がソースとなりうることもある(そしてそのさらなる変形として、著名人が拡散しているのだから、それはきっと正しい情報なのであろう、そのように受け取る向きもあるようだ)。やや話がそれたが、要はネット上における発言はそれ自体の正誤ではなく、ソースの有無さえ示してしまえば、ソースも含めて深く検証されることもなく正しいことになってしまうのである。
 風間は「なぜ唯一Bこそが真実でなければならないのか」「なぜAが真実ではありえないのか」について深く検証することなく、「なぜBが真実なのか」に関するソースをいくつか示すことで、ゆえに「Bが真実である」として論を終わらせようとする。この態度は「ソース至上主義」と態度として同じであるし、風間の〈振る舞い〉に納得してしまう学生は「ソース至上主義」に慣れすぎてしまったネット民と同じである。
 なぜAと考えてしまいBと考えることがなかったのかを検証するのではなく、ただAが間違いでBが正しいと示す風間のやり方も、小保方問題を無責任に消費し騒ぐ人たちに通じるものがある、といえば言い過ぎかもしれないが……。それはともかく、『教場』における〈探偵〉の〈振る舞い〉が10年代のネットユーザーに近いものがあるなと気づいた時、私は『教場』は10年代を象徴するような本格ミステリとして読めるのではないかと考えたのだった。

*1:第二話「牢問」では、風間は「なぜAが真実ではないのか」を示しているが、「真実は一体何か」を示せていない。謎のまま放置してしまっている。また、「なぜAが真実ではないと〈探偵〉は考えたのか」もやはりここでは説明されないままになっている。  話がやや逸れてしまうが、私は〈本格〉の醍醐味とでもいうべきもののひとつは、〈現実〉と〈幻影〉の交差であると考えている。ある謎に直面した際に、謎の周囲にある〈現実〉を徹底的に検証することで、それまでその場を支配していた〈事実〉が〈幻影〉のようにはかないものであることが露呈し、(あるいは、〈事実〉であるという場の認識こそが〈幻影〉のようなものだと露呈し)、それまで見えなかった〈幻影〉の如き真相が〈現実〉の検証を積み重ねたことにより実体化して〈現実〉となること。〈現実〉と〈幻影〉が交差する時、〈本格〉は輝くのである。ここに二つの面白さが要素として生まれることになる。まずは、〈現実〉が〈幻影〉にすぎないことが判明し、場に恐慌がもたらされる瞬間の、視点に対する揺り動かし。そこがまず面白みのひとつとなる。その振れ幅が大きければ大きいほど、待ち受けている衝撃は大きなものとなる(どんでん返し、意外な結末というのは、ここに由来する)。次に、〈幻影〉が〈現実〉になっていく過程で用いられるロジック。それまで徹底的に検証さえたことで集まった情報を、どう繋ぎ、そして想像力をもってどう飛翔したか。ここが謎解きの面白さとリンクするところになる。大きく飛翔すればチェスタトン的な意外な推理となり、飛翔はせずとも鮮やかに繋ぐのであれば初期国名シリーズでのクイーン的な緻密な推理となる。  第二話「牢問」でもそうだが、『教場』では〈幻想〉を〈現実〉に肉付けしていく過程がまるで見えない。どの情報を積み重ねて〈現実〉としたかは見えるのだが、どこを出発点としたのかが見えないため、飛翔した高さはわからず、どのような情報群から取捨選択し繋げていったかがわからないため、推理の緻密さも見えないのだ。謎解きに限定すれば、『教場』は肝心の推理が弱いように思えてならない。