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6/26のスポーツ新聞各紙一面と『物語』シリーズ終章から見る、10年代に求められる物語

ミステリ

※以下の文章では、「まよいマイマイ」「なでこスネイク」(『化物語』)、
 「つばさタイガー」(『猫物語(白)』)、「しのぶタイム」(『鬼物語』)、
 「おうぎダーク」(『終物語 下』)の真相に触れています。

はじめに

 2014年のミステリ界の大きなトピックスのひとつに、「西尾維新の『物語』シリーズがいよいよ完結すること」があるわけだが。ここで、『物語』シリーズについて、今いちど考えてみたいと思う。

終物語 (下) (講談社BOX)

終物語 (下) (講談社BOX)


 2006年に『化物語』が講談社BOXからリリースされ、以後同レーベルから17作が発表されてきた『物語』シリーズは、阿良々木 暦と少女たちの怪異にまつわる物語を描いたもので、キャラクターたちの軽妙な会話が魅力の小説である。
 シャフトによるアニメ化も大いに話題となり、パチスロ&パチンコ化もあって今なお新たなファンを獲得し続けている。

化物語 Blu-ray Disc Box

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『物語』シリーズ全体のストーリーは、以下のようなものだ。
 舞台は現代の地方都市。お人好しな高校生・阿良々木 暦が伝説の吸血鬼“キスショット・アセロラオリオン・ハートアンダーブレード”を救うところから始まる。暦はキスショットを救った代償に吸血鬼もどきの人間となり、キスショットも人間もどきの吸血鬼“忍野 忍”として生きていくことになる。しかし、キスショットが街に留まってしまった結果、街に溜まっていた霊的エネルギーに乱れが生じてしまい、怪異が街に出没するようになる。暦は怪異に憑かれた少女と出逢い、彼女たちを助けようと奮闘するのだった……


『物語』シリーズは3部構成をとっており、ファースト・シーズンで少女たちと暦の出会いを描き、セカンド・シーズンでは少女たちのその後を描き、そしてファイナル・シーズンは暦自身の物語を描いてきた。ファイナル・シーズンに特に顕著ではあるが、阿良々木 暦の人間的な成長を描き切った物語であり、『物語』シリーズは暦を主人公とするビルドゥングス・ロマンだったといえる。

ミステリーとして見る「物語」シリーズ

『物語』シリーズを語ろうとする場合、キャラクター小説として、もしくはビルドゥングス・ロマンとして、そしてもちろん現代の怪異譚として論じるものは割合見受けられるが、ミステリとして見た論考をあまり見た記憶がない。私が記憶している限りでも評価できるのは、「ミステリーとしてみた『化物語』」
http://chihaya-blog.at.webry.info/201007/article_12.html、これ1本ぐらいである。

化物語(上) (講談社BOX)

化物語(上) (講談社BOX)


たとえば『化物語』の場合、解くべき謎がはっきりと明示されるのは「つばさキャット」のみではあるが、

1つのエピソードにつき1つの謎が提示されているのだ。
 真相に至る手がかりや伏線もしっかりと描かれており、作中人物たちも真相に自力で辿り着いている。ゆえに、『化物語』はミステリの構造をとった作品だといえる。



 ここで「解くべき謎」について補足しておくと。『物語』シリーズで登場人物たちが主体的に謎解きに挑んでいるのは、「ひたぎクラブ」「つばさキャット」、そして短篇集『暦物語』だけである。この内、『暦物語』は意識的に謎解きを描いた作品であり、『物語シリーズ』における日常の謎とでもいえる作品集になっている。それ以外の作品では、登場人物たちがなんらかの騒動に巻き込まれ、「なぜこのような事態になったのか」をなんとなく考えている内に、騒動が解決、その中で登場人物は真相に気づくという形式をとっている。


 さて、「なぜこのような事態になったのか」という問題は、そのままでは真相にたどり着くことが困難であるし、そのままでは真相に辿りつけたとは言いがたいこともある。


 たとえば、「なでこスネイク」の場合、「なぜこのような事態(千石撫子が蛇の呪いを受けた)になったのか?」という問題への最短距離は、「誰が蛇の呪いをかけたのか?」である。つまり、問題をそのまま考えるのではなく、問題を構成する要素から、切り口としやすい要素を抽出して、そこを突破口にして推理していくというやり方だ。この場合、「誰が蛇の呪いをかけたのか?」がまずは解くべき謎となる。


 たとえば、「まよいマイマイ」の場合、「なぜこのような事態(道に迷う)になったのか?」という問題の解答は、「迷わせる怪異である蝸牛がいるからだ」であるが、するとその解答は新たに「蝸牛は誰に憑いたのか?」という謎へと反転する。「蝸牛は誰に憑いたのか」が解明されることで、ようやく真相「阿良々木 暦は家に帰りたくなかった」が明らかになるのである。つまり、「まよいマイマイ」で解くべき謎は、「蝸牛は誰に憑いたのか」なのである。私がいう「解くべき謎」というのはそういうことだ。

「物語」シリーズに頻出する、あるミステリ形式について

 さて、ここで指摘しておきたいのが、『物語』シリーズでは謎解きの形式として、「Aと思わせておいて実はBであること」を見破る謎解きが非常に多いということだ。


 ファースト・シーズンでは「まよいマイマイ」「なでこスネイク」がそれに該当する。ただ、先程も述べたように、「まよいマイマイ」「なでこスネイク」では「Aと思わせておいて実はBであることを見破る謎解き」がメインではない。前者は「誰に怪異がついたのか?」、後者は「誰が千石撫子に怪異を憑けたのか?」である。「クラスメイトと思わせておいて千石撫子であることを見破る」必要はないのだ。結果的にクラスメイトでなかったことに驚きはするが、「蛇の呪いを仕掛けたのは誰か」を推理する上で、「クラスメイトと思わせておいて千石撫子であることを見破る」必要はない。


 だが、これがファイナル・シーズン以降になると、「Aと思わせておいて実はBであることを見破る謎解き」がメインとなる謎解きが増えてくるのだ。
 たとえば、『終物語(下)』に収録されている「おうぎダーク」では、解くべき謎は「忍野 扇は何の怪異か?」だが、これは正確には「忍野 扇はくらやみの怪異ではない。では誰の怪異か?」である。「Aではない。では、Bはなにか?」を問う謎なのである。


 このパターンがメインとなる作品の初出は、『猫物語(白)』に収録されている「つばさタイガー」だろう。

猫物語 (白) (講談社BOX)

猫物語 (白) (講談社BOX)


 ここでの解くべき謎は、「羽川 翼が虎を呼び出したのは孤独が原因ではない。では何か?」である。『鬼物語』の「しのぶタイム」も「Aと思わせておいて実はB」パターンだ。


 それでは、セカンド・シーズン以降、特にファイナルでこのパターンが増えたのはなぜか、
それについて考えてみたい。なお、以後の文章では、「Aと思わせておいて実はBであることを見破る謎解き」を字数の関係から「A→Bパターン」と表記する。その点、ご留意いただきたい。


 さて、「A→Bパターン」がメインとなった作例として、「つばさタイガー」「しのぶタイム」、そして「おうぎダーク」、この3つを私は挙げた。
 ところで、この3つをはじめとして、『物語』シリーズの「A→Bパターン」がメインな作品にはある共通点がある。それは信用のならない〈語り手〉、もしくは信用のならない〈証言者〉がいるということだ。たとえば、阿良々木 暦と羽川 翼は自分の弱さに蓋をして見ないようにしている。たとえば、忍野 忍は忘れたい過去については語らないし、そもそも記憶自体があやふやなものである。ゆえに彼らを信用することができないのである。

 彼らが〈証言者〉になった場合、〈語り手〉や〈探偵〉は誤った認識に基づく偽の情報を基に推測せざるをえず、それゆえ誤った推測を基にした言動をとってしまう。
 彼らが〈語り手〉である場合、〈語り手〉は誤った認識を基にした言動をとってしまう。
 どちらも誤った認識に基づく言動であるため、物語が進むにつれ周囲や状況との齟齬が生じてしまい、そのズレが物語で活きてくる。謎となって、読者の興味を惹くこととなる。認識に誤りがあることに語り手が気づいた時、それでは一体何が起こっていたのか、真実を見極めようとする試み。その試みがスリリングであるし、「A→B」と認識が変化することにより見えていた物語が劇的に変わることが驚きをもたらすのである。


 お気づきだとは思うが、信用のできない〈語り手〉という手法を使う場合、どうしても「A→Bパターン」にならざるをえない。
 つまり、認識に誤りがあったことを阿良々木 暦に、忍野 忍に気づかせ、自身が抱える弱さを彼らが認め乗り越えていく様を終章で描きたかったからこそ、「A→Bパターン」で描くという手法をとることを西尾維新は選択し、そしてそのために信用のできない語り手という手法を使うに至ったのだ。

望まれるのは〈終戦〉ではなく〈敗戦〉

 ここまでならば、まあ、「A→Bパターン」がどういうパターンかを考えれば思いつく話。それでは、もう一歩進めてみよう。


「A→Bパターン」は時代が欲したのではないか?
『物語』シリーズもその流れにある作品ではないのか?


 さて、6月26日のスポーツ新聞の一面は、デイリー以外はすべて、サッカー日本代表のW杯での惨敗ぶりを非難するような見出しが躍っていた。
「日本サッカー 出なおせ」
「本田 惨め」
「負け犬の遠吠え 本田」
「口だけだった 本田」
「本田惨めな結末」
 大会前の「史上最強。ベスト4も狙える」といった景気のよい記事から一転して、
「実はW杯前にはチームとして内紛状態にあり崩壊していた」
「実は監督が無策だったのだ」
「実は今までは下位の相手、もしくは緊張感のない相手としか試合をしていなかった」
 以上のような記事が溢れることとなったのだ。

 この現象は一体なんだろう。スポーツ新聞の醜悪な掌返しであるという見方はまずあるだろう。だが、ここから私が読み取ったのは、そもそもこういう記事を求める人々が今の時代に多いのではないかということだった。
 つまり、「今大会は確かに終った。しかし、次がある。立ち上がれ」ではなく、「我々は負けた。強いと勘違いしていたからが、実は〜だったのだ」という、そのような記事こそが求められているのではないかと考えるのだ。
〈終戦〉として誤魔化すのではなく、〈敗戦〉として捉えた上で今まで見えてこなかった真相らしきもの(=戦犯)を見つける。このような読み物・物語を大衆が求めているのではないかと私は考える。裏を返すと、真相らしきものは今まで見えてこなかったものが望ましく、今まで見えていたものが真相であってはならない。今まで見えていたものが否定され、今まで見えてこなかったものが真相として物語に降臨すればよいのだ。
 今回のW杯の場合は、「そもそも前回大会がフロックだった」、これさえ見えずに済めばよいわけだ。ゆえに、「チームが崩壊していたこと」「監督が無策であったこと」がそれらしい理由として求められているわけだ。そして、スポーツ紙は大衆のそういう思いを汲み取って、今回のような記事を用意したのではないだろうか。


 整理すると、

  • 〈終戦〉ではなく〈敗戦〉の物語が求められている
  • 今まで見えてこなかった真相らしきものが浮かび上がる筋が求められている

 これが今大衆から求められている物語である。そして欲をいえば、

  • 今まで見えていた真相らしきものが真相から外れればよい


 東日本大震災からの復興という物語よりも、福島第一原子力発電所事故を受けての脱原発反原発の物語が多く語られがちなのも、後者の方が前述の2点を抑えた物語を作ることができるからではないか。


リーマン・ショック以降」という物語も、労働者が使い捨て可能であるということが誰の目にも見えるようになったこと、それゆえに物語としての強度を保てているのではないか。


 アニメや漫画、小説にしてもこのような物語が求められている。〈終戦〉ではなく〈敗戦〉を前提とした作品としては、「マブラブ・オルタネイティブ」「進撃の巨人」を挙げたくなるが、ここでむしろ注目したいのはアニメ版「一週間フレンズ。」である。


 藤宮香織の記憶が1週間でリセットされ、長谷祐樹のことを忘れることは、長谷祐樹にとっては〈敗戦〉である。長谷と藤宮は1週間ごとに〈敗戦〉を繰り返し、〈敗戦〉の被害を減らす方向で対策を練ろうとする。しかし、二学期になって九条 一が転校してくると、九条の言葉がきっかけで長谷は今までに受けたことのない程の〈敗戦〉を迎える。ここで長谷は一度は九条を責めるが、今まであえて目を逸らしていた問題、すなわち藤宮がなぜ記憶を失うようになったのかに向き合うことになる。アニメ版はそこで終わるのである。最初から皆の前に見えている問題、すなわち「そもそもこのような病気はなぜ起こるのか?治療できないのか?」、この問題を棚上げしたまま、よい話として終わってしまったのである。

さいごに

 ここで『物語』シリーズの話に戻す。阿良々木 暦がファイナル・シーズンで辿る物語は、今まで見えてこなかった真相らしきものが浮かび上がる話である。そして、「おうぎダーク」で語られていたように、阿良々木 暦の青春が終わる話ではなく、彼自身の青春が敗れた物語であった。


 忍野メメや影縫余弦が街から去る中、阿良々木 暦が青春を肯定することで終わったファースト・シーズンはゼロ年代にふさわしい終わり方であり、敗戦を迎えたファイナル・シーズンは10年代にふさわしい物語だった。私はそのように考えるのだが。