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フェアネスはいかにして確保されたか――深水黎一郎『倒叙の四季』を読んで

ミステリ

懲戒免職処分になった元警視庁の敏腕刑事が作成した〈完全犯罪完全指南〉という裏ファイルを入手し、完全犯罪を目論む4人の殺人者。「春は縊殺」「夏は溺殺」「秋は刺殺」「冬は氷密室で中毒殺」。心証は真っ黒でも物証さえ掴ませなければ逃げ切れる、と考えた犯人たちの練りに練った偽装工作を警視庁捜査一課の海埜刑事はどう切り崩すのか? 一体彼らはどんなミスをしたのか。

 

『大べし見警部の事件簿』『ミステリー・アリーナ』と変化球が続いた深水黎一郎が投じる、本格の豪速球
――深水黎一郎の連作短編集『倒叙の四季 破られたトリック』にコピーをつけるならば、そういった内容にまずなるだろう。安直ではあるが。

 

倒叙の四季 破られたトリック (講談社ノベルス)

倒叙の四季 破られたトリック (講談社ノベルス)

 

 

この記事では、どのように豪速球であるのか、そもそもどうして豪速球と評するのかを説明していこうと思う。


倒叙ものと本格ミステリ

まず、『倒叙の四季』はタイトルにもあるように倒叙ものと呼ばれるジャンルに属する。
倒叙ものについては、以前拙ブログでも、「古畑任三郎」シリーズを例にとって説明したことがある。

 

ue-kaname.hateblo.jp

 

倒叙形式は犯人が最初に明かされてしまうためにフーダニット的な興味がどうしても薄くなってしまう(加えて「古畑」の場合、犯人が殺人を実行するまで、さらには証拠隠滅をはかる様子まで描いているため、ハウダニット的な興味も同様に薄くなってしまう)。
従って、倒叙ものは犯人と探偵の攻防に主眼のおかれたサスペンスという形式を自然ととることになる。
それゆえ、倒叙は本格ではないという意見すらある。確かに、倒叙のいくつかには、証拠を地道に集め続けることで犯人の計画が自然に崩壊してしまうものもあり、これらは本格とは言いがたいものがある。
だが、倒叙形式であっても解かれるべき謎を内包する本格は成立する。
代表的な謎としては、「犯人はどこでミスをしたのか」が挙げられる。この場合、作品内では〈犯人〉VS〈探偵〉という構図があり、メタ・レベルで〈作者〉VS〈読者〉という構図が誕生することとなる。


さて、それでは『倒叙の四季』はどうだろう。
倒叙の四季』に収められた四編は、以下のような構成をとっている。

(1)犯人が〈完全犯罪完全指南〉を参考にターゲットを殺害する
 →犯人視点で描かれる。
(2)死体が発見され、警察が二人組で犯人のもとを訪れる
 →犯人視点で描かれる。
  探偵役自身は犯人にしつこく絡むようなことはしない。
(3)N度目(N≧2)の警察の来訪。犯人、逮捕される
 →犯人視点で描かれる。

 

ここでまず、(1)に注目してみよう。
犯人は逮捕されないよう、様々な隠蔽工作を行う。
自殺に見せかけようと、事故に見せかけようと、物盗りの犯行に見せかけようと、策を弄するのである。
しかし、収められた四編すべてで、当初は想定されていなかったことが起こる。

――本格ミステリに親しんでいない人でも、「コロンボ」や「古畑」を観たことがある人ならば、予期せぬ事態に対応しようとする犯人の小細工が、犯人にとっては致命傷となるであろうことはすぐにわかるだろう。

すれた読者ならば、この記述にこそ読者に向けたトリック――実はその小細工は致命的ではなく、単なるレッド・ヘリングだというトリック――が仕掛けられているのではと疑うかもしれない。しかし、深水はそういう詐術は用いない。四編とも、そこが犯人にとっての致命傷になっているのだ。


さて、本書の煽り文として帯に「一体彼らはどんなミスをしたのか」とある。
それに対する解答には、ふたつの要素が必要となるだろう。まずひとつ目は、〈ミスの所在〉である。つまり「隠蔽工作でなされた行為のうち、どれがミスであるか」だ。そして、もうひとつ必要とされる残る要素は、〈ミスがミスたる所以〉だろう。「その行為のどこが間違っていたのか」である。

Aの時点で行われた行為はBという理由により誤りである。――AとBが説明されれば、それはすなわち「一体彼らはどんなミスをしたのか」を説明したことになるだろう。

 

ここで、『倒叙の四季』を振り返ってみよう。
実際には、収録された四編において、各話の犯人はいくつもミスを犯している。
その中には、深水が〈ミスの所在〉については、ほとんどオープンにしてしまっているものがある。このことについては、先ほども説明した。
解決編となる(3)の直前までには、〈ミスの所在〉が明らかになっているもの。しかし、そのミスには、〈ミスがミスたる所以〉。これが謎として残っている。
そして、おそらく深水が同書で読者に問うているのはそこである。「〈ミスの所在〉が明確なミスにあなたは気づいているであろう。では、〈ミスがミスたる所以〉は?」

 

深水黎一郎はいかにフェアであったか

本作での深水は、この問いをかなりデリケートに取り扱っている。

 

たとえば、「春は縊殺」。

探偵役が犯人を特定する物証として提示したものは、(3)までに読者に開示された情報だけでは十分とはいえず、その点ではアンフェアであるといえる。しかし、(1)の時点で〈ミスの所在〉が明らかとなっているミスについては、〈ミスがミスたる所以〉に関しても、(1)だけで十分に推理は可能だろう。

 

「冬は氷密室で中毒殺」では、〈ミスがミスたる所以〉に関して、少々科学知識が必要であるからか、(2)の後に探偵視点でのパートを入れて、そこでヒントを提示している。ゆえに、(3)の直前までで〈ミスがミスたる所以〉に関しては、推理が可能である。逆に、別の科学知識が必要となるある推理については、問いの範疇外にあると考えたのか、(3)までにそのヒントは示されていない。

 

要は、〈ミスがミスたる所以〉を巡る推理については、そして問題として設定したものについては、深水は今回、徹底してフェアなのだ。


本文中に読者への挑戦状こそないものの、『倒叙の四季』はエラリー・クイーンの〈国名〉シリーズの系譜にある。
「探偵役は〈ミスがミスたる所以〉を推理によって看破しています。さて、探偵役はどのように推理したのでしょう」
これが本書における、深水から読者への挑戦状である。

 

ここで一つ、気をつけておかねばならないことがある。
読者は問題文に該当する(1)によって、〈ミスの所在〉をほぼ把握しており(メタ・レヴェルでほぼ確定しており)、(3)より以前では、〈ミスがミスたる所以〉については作者から伏せられた状態になっている。つまり、〈ミスの所在〉と〈ミスがミスたる所以〉は切り離されている。
ところが、作中の探偵はそうではない。探偵は〈ミスがミスたる所以〉を看破しているからこそ、〈ミスの所在〉に気づいたわけである。つまり、読者と同じ問題系を共有していない。
同じ問題系を共有していない以上、深水から読者への出題は、本来ならば作品内においてそのままでは探偵の前に現れることがない。つまり、探偵は本来ならば深水の読者への出題に解答を与えることはない。

 

だが、ここで注目すべきは、探偵と犯人との(3)における対話である。
探偵は犯人のミスを次々あげていく。そして、中でも決定的であったミスを、ひとつ指摘する(ただし、「春は縊殺」においては、それほど致命的ではない)。犯人はそこで、〈ミスの所在〉について気づく。
そして、犯人は訊く。あるいは心の中で叫ぶ。

「意味がわかりませんが、一体なんなんですか」

 

「一体、俺はどうすべきだったのか」

 

「え、どうして?」

 

この時、犯人から探偵への問いは、深水から読者への問いと重なる。
探偵は犯人に説明することで、読者に深水からの問いへの解答を説明していることになる。

そして、探偵は――深水は、皆の目に見えている手がかりから論理を組み立てて、推理を完成させる。

 

『ミステリー・アリーナ』のような絢爛さも、『美人薄命』のような物語の美しさもここにはない。
だが、徹底したフェアネス。高度なゲーム性はそこにはある。
ゆえに、『倒叙の四季』は本格の豪速球たりえるのである。*1


本当ならば、サイバーミステリとしての『倒叙の四季』についても語りたいところだが、さすがに原稿用紙13枚分も書いているこの状況では、長くなりすぎてしまっているので、ひとまずここに筆を置きたいと思う。


最後にこんな話を。
以前、私が某氏とチェスタトン系譜について立ち話をしたときのこと。
泡坂妻夫山口雅也西澤保彦小森健太朗は間違いなくそこに入るだろうが、00年代以降のデビュー組だと深水黎一郎もまたチェスタトンの騎士になるだろうという話で落ち着いた。
だけどね、飯城さん、深水黎一郎はクイーンの騎士でもあるようですよ。

 

 

*1:欲をいえば、マニュアルに沿った部分にはミスがないことについては、犯人視点ではなく、神の視点である地の文で説明がほしかった。〈ミスの所在〉については、作者と読者の信頼関係に依っている部分が強いため、作品内レベルで〈ミスの所在〉を確定させることができれば、『倒叙の四季』はさらなる公平性を確保することができただろう。だが、メタ真犯人の正体を考えれば、それができなかったこともわかるが。