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『間違ったサブカルで「マウンティング」してくるすべてのクズどもに』を読んだ

サブカル

ロマン優光さんの『間違ったサブカルで「マウンティング」してくるすべてのクズどもに』を読んだ。以下、簡単な感想。

 

 

サブカル内でマウンティングしてくる人のみっともなさを指摘するということについては、この本は成功しているとは思う。その点についてはフェアな態度が保たれているだろう。
また、頷ける箇所も少なくはなかった。

 

たとえば、「サブカル」の定義。
町山智浩が編集者として扱ってきたもの、そしてそこから派生してきたもの」かつ「岡田斗司夫が自分たちのものであると主張しなかったもの」――正しいかどうかは別にして、非常にわかりやすい定義ではある。こういう定義の方法があったのかと、その方法論には感心させられた。

 

また、町山さんに関するくだりで、2011年の花見イベントにあった「ダサさ」を指摘した箇所も頷けた。
「大人数を集めて」というのは、確かにサブカルとしてズレている。繋がりと連帯を重視するのはオタクであり、サブカルはそういうものは重視しないからだ。

 

もっとも、一番刺激的だったのは、中森明夫さんに関するダメ出し。
80年代以降の「サブカル/オタク」を考えるにはここだけでも読んでおいた方がよいとは思う。

 


……とまあ、部分部分で頷ける箇所はあった。
ただ、どうにもすっきりしない。
というのも、この本には「渋谷系」の「し」の字も出てこないからだ。サブカルについて定義するくだりがあるのに、川勝正幸さんが果たしてきたことについてまるで触れられていないからだ。

 

前述のサブカルの定義にしても、オタクの極として岡田斗司夫を設定するのであれば、サブカルの極となるのはどう考えたって川勝正幸であろう。というのも、オタクの極に岡田斗司夫を据えるというのは、それはすなわち〈90年代〉における在り方、認知のされ方が考慮されているとしか考えられないからだ。

 

岡田斗司夫は、90年代にサブカルの前に最初に現れた「自分のオタク趣味をオタクでない人にも理解できるように話すオタク」だった。

 

オタクの迷い道

オタクの迷い道

 

 

こういう人は今でこそ増えてきているが、90年代はそんなにいなかった。

かなり端折って喋るが、それまでは中森明夫などのせいで「オタク=理解できない人」でしかなかったのが、岡田斗司夫の登場によって、オタクとも理解しあえる・対話できると私たちは気づけたわけである。ゆえに、90年代において、オタクの代表、オタクの象徴は岡田斗司夫だったのである。*1

 

一方で川勝正幸は、小西康陽と並び、80年代後半から90年代にかけての渋谷系ムーヴメントにおける最重要人物ともいっていい人物である。同時代のサブカルにおける渋谷系の位置づけを考えるに、川勝正幸を90年代サブカルの代表・象徴と見做すのは自然なことだろう。

 

 

そう考えると、件の「サブカルの定義」において、岡田斗司夫町山智浩を対峙させるというのは腑に落ちないわけである。

 

町山さんがサブカルではない、ということではない。町山さんだとサブカルを広く網羅できていないように思えるし、そもそも町山さんだと岡田さんからそう離れてもいないだろうとも思うのだ。
〈町山さん周辺〉で「サブカル/オタク」を切り分けることを目的とする本だとすれば、件の定義も納得はできる。だが、果たしてその定義でサブカル全般を網羅できているかといえば疑問が残るところだ。

 


他にも気になった箇所はいくつもあるのだが、その中でももっとももやもやしたのは、アイドルはサブカルなのか、という話。アイドルはオタク・ジャンルではないだろうか。

 

今のオタクでも最大勢力を誇るアニメ・オタクにはなぜかAKBを敵対視する向きが多いから、それもあってアイドルがサブカル側に回ってきているのかもしれないが、連帯・現場での高揚感を重視されていること、さらには90年代のアイドル・ファンの扱われ方なども考えるに、アイドルはオタク・ジャンルと見做すのが正しいように思える。正確にいえば、「今の地下アイドルはオタク・ジャンルと見做すのが正しい」であろうか。

 

アイドルをサブカルとして扱う手つきなども見るに、やはりこの本は〈町山さん周辺〉で「サブカル/オタク」を切り分ける、敵・味方を切り分ける書籍として読むのが適切なのかもしれない。

*1:従って、オタク趣味をオタクでない人にも理解できるように話せるオタクが増え、オタク趣味が拡散してしまった今となっては、岡田斗司夫はその特権を剥奪された、ともいえる