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アニメを教養として観るとは?~町口哲生『教養としての10年代アニメ』を読んで

アニメ

『声優論』の共著者でもある町口哲生さんの『教養としての10年代アニメ』(ポプラ社)を読み終えた。

 

(117)教養としての10年代アニメ

(117)教養としての10年代アニメ

 

 

昨年、「受講条件は週20本の深夜アニメ視聴」というニュース記事で話題にもなった、近畿大学の講師でもある町口さんの新刊である。

bylines.news.yahoo.co.jp

 

町口が採用したアニメへのアプローチとは

私は2011~15年にかけての約5年間、深夜アニメを週に30本以上チェックしていた。ミステリや音楽などのポップ・カルチャー、それもユース・カルチャーとの連関をアニメに見出せるのではないかと思い、いわば「教養」としてアニメを観ていたのだが。それだけに町口さんが「教養として」アニメをどう捉えたのか、そこに強く興味を持ったため、刊行前からその内容が気になっていた。

『声優論』でもそうだったが、町口さんは声優さんの声を通じて、アニメを通じて社会との連関を、〈オタク〉としてではなく〈ポップ・カルチャーの観測者〉として読み取ろうとしていた。その姿勢に信頼に足るものがあると私は思ったため、本書の刊行を心待ちにしていたのである。*1

本書で町口は、「はじめに」において、アニメとはインフォテインメント=情報娯楽であると打ち出している。アニメとは「情報を得ることが楽しみとなるような」もの、というのである。さらに、「単に娯楽と呼ぶにはあまりにも多くの情報が付加されているので、それを解読することが楽しみの一つ」ともいう。

そこで町口はアニメを情報と娯楽の2つの側面から分析できると考え、その方法として次の2つを挙げる。

  • 情報の部分は教養(学問)で分析
  • 娯楽の部分は、視聴者が作品をどのように受容したかを研究

このうち、町口が本書で採ったのは、前者、すなわち、情報を教養で解析するアプローチである。

 

本書で提示されるスリリングな読み解き

さて、『教養としての10年代アニメ』において、章を割いて大きく扱われている作品は以下の七作品である。

たとえば第1章だと、町口は冒頭で「魔法少女まどか☆マギカ」がゼロ年代アニメの総決算である理由を述べる。セカイ系、空気系、サヴァイヴ系、ループもの、戦闘美少女といった、ゼロ年代にジャンル批評で言及されたものについて解説を加える。

その上で、「まどか☆マギカ」が10年代の新機軸となった理由も述べ、同作を源流として「絶望少女もの」とされる作品が生まれたと続ける。

1999〜2010年に深夜アニメをほとんど観なかった私は*2、この導入部を読んだことでようやく「魔法少女まどか☆マギカ」の文化的な背景を見通すことができたといえる。

さて、この章において町口は、「まどか☆マギカ」のアニメ史における位置づけ、オタク文化における位置づけだけではなく、「まどか☆マギカ」をハブとすることで、過去の文学作品(ゲーテの『ファウスト』)、可能世界論、ウェブ・アニメーションやアート・アニメーションなどのオタク文化の周辺、あるいは領域外にあるポップ・カルチャーや教養にも言及している。「まどか☆マギカ」を読み解いた上で関連性を見出だせるものを指摘していくのである。

 

オタク文化の周辺、あるいは領域外にあるポップ・カルチャーや教養への言及という点では、むしろ第2章以降で効果的に達成されており、本書の本領は第2章以降にあるように、私には思える。

第2章ではゴシック精神(文化)と中二病高二病、大二病。さらには現在のアイドル文化について。第3章では意識高い系。第4章では日本におけるファンタジーの受容のされ方とゲーム理論アスペルガーについて。第5章ではMMORPGとMMOFPS、メタ・オリエンタリズムについて。第6章ではヒトクローン個体とスマートシティ、超監視社会について。第7章ではリスク社会とコラテラル・ダメージについて。

そういった町口ならではの読み取り、そこからの指摘がスリリングであり、楽しく読むことができた。

さらにいえば、オタク文化の周辺、あるいは領域外にあるものが、作品の補助線として提示されたことで、今回取り上げられた7つの作品については、私の中で再構築された感もある。ゆえに、『教養としての10年代アニメ』は、私にとっては示唆に富む、有意義な批評に思えた。

 

気になった箇所について~AKB48セカイ系ライトノベルの特徴

一応、『教養としての10年代アニメ』を読んでいて気になった箇所を2点ほど記しておく。

  

 まず、AKB48セカイ系だとする見立てについて。

「僕」を一人称にして描かれた楽曲(歌詞)を女性アイドル(君)が歌うAKB48セカイ系だとすれば、(81-82頁)

この部分、実は町口本人による見解ではない。そういう論者がいるとして、紹介しているにすぎない。*3その上で、上記の見解について考えてみよう。

たとえばシングル曲だと「僕の太陽」「大声ダイヤモンド」「ポニーテールとシュシュ」「フライングゲット」をはじめとして、「AKB0048」第2期エンディング・テーマでもあった「この涙を君に捧ぐ」*4など、確かにAKB48には「僕」を一人称とする歌詞は多い。

とはいえど、それらの曲が「きみとぼくという小さな関係性が、世界の危機やこの世の終わりといった抽象的大問題に直結する作品」だとは私は思わない。*5そこまでのスケール感はない。「大声ダイヤモンド」で「僕たちが住むこの世界」について触れる一節があるが、それも恋に落ちたばかりの少年・少女特有の全能感というか、周囲が見えなくなっている状況に過ぎず、セカイ系だと見做すことはできないだろう。

ただ、「僕たちは戦わない」については、PVの内容も考慮すれば、それこそ「絶望少女もの」で捉えられるのではないか、とは思う。例外的に。


【MV full】 僕たちは戦わない / AKB48[公式]

 

元々の論者は、「僕」という一人称で描かれた楽曲をアイドルが歌うという状況に引っ張られているように思える。

なお、「僕」を一人称にして描かれた楽曲を、アイドルではないが女性歌手(君)が歌ったものとして、太田裕美木綿のハンカチーフ」がある。同曲は男女の対話形式になっているが、「君」と「僕」に注目するならば、そして遠距離恋愛という関係に着目するならば、これをして「ほしのこえ」の源流だと言い切ることも可能になってしまう。

その後にBABYMETALに言及するための枕として、AKB48セカイ系という見立てがあることを紹介したのは理解できるが、この論を引くことで町口が損をしているようにも思える。町口自身のBABYMETALと中二病の見立ては頷けるものがあるだけに。

 

 

次に、町口がライトノベルの特徴として挙げた5点について。

①大人でもない子供でもない若者を読者として想定していること
②口語的表現を多用していること
③視覚に訴えるイラストを使用していること
④マンガ、アニメなど他のポップカルチャーと深い関係性があること
⑤文庫(ときに新書)が大半であること (109-110頁)

この内、4つ目についてはもっと範囲を狭めた方がよいのではないかと考える。

アニメやマンガ、特撮やゲームといったオタク・カルチャーとは確かに深い関係性があるが、たとえば音楽などのポップ・カルチャーとはそんなに深い関係性にはないだろう。さらにいえば、00年代半ば頃からオタクたちに「オシャレサブカル(笑)」とバカにされてきたものを真正面から扱った作品を私はまったく知らない。

私が10代だった頃からライトノベルはあったが、少なくとも私はライトノベルを読んで共感を覚えたことはない。これは、私がオタク文化を文化的出自としないからだと思われる。

「他のポップ・カルチャーと」というよりは「他のオタク・カルチャーと」とした方がより正確にライトノベルを定義できていると思われる。

同時に、1つ目についても「若者」とするのは範囲が広すぎるように私は考える。

この点については、以前、私が青春小説について述べた次のエントリの後半部とも重なる部分があると思うので、併せて読んでいただくと理解が早いかもしれない。

ue-kaname.hateblo.jp

繰り返しにはなるが、町口の挙げた特徴については間違っていないとは思うが、もうちょっと範囲を絞った方が精度が上がるのではないかと思った。

 

さいごに

2010年代におけるアニメ批評の極北として、アニメ作品の現象学的解明を目指した小森健太朗の『神、さもなくば残念。』がある。〈私〉と作品との関係性を起点として、作品論を「学的、あるいは抽象的、普遍的に論じ、理論化」しようとした意義深い書籍である。

 

 

一方で、『教養としての10年代アニメ』は、同時代のポップ・カルチャーや教養を参照することで、作品自体を再構築しようと試みた刺激的なアニメ批評になっている。

作品との向き合いから作品論を超越しようとした小森と、作品の外を参照することで作品を再構築しようとする町口と。

この違いは、『声優論』における両者のアプローチの仕方にも通じる部分があるなと、今回、『教養としての10年代アニメ』を読んでいて気づかされた次第。

 

声優論 アニメを彩る女神たち:島本須美から雨宮天まで

声優論 アニメを彩る女神たち:島本須美から雨宮天まで

 

 

なお、町口さんはあとがきで続編的内容のものを示唆されているのだが、作品として「輪るピングドラム」「PSYCHO-PASS」「進撃の巨人」の名前を挙げている。10年代のポップ・カルチャーとの対応という意味で「AKB0048」も論じてほしいな……とリクエストしたいところだ。

*1:逆にいえば、これがオタク系ライターによる〈オタク〉としての「10年代アニメ考」であれば、私は興味を持つことはなかっただろう。

*2:ゆえに、『声優論』で私は、ゼロ年代のアニメにおいて活躍した声優さんについて論じなかったわけである

*3:引用した文章は「ももいろクローバーZ(以下、ももクロ)はアイドル戦国時代を生き抜くがゆえにサヴァイヴ系だと位置づける論者がいる」と続く。

*4:歌ったのは派生ユニットでもあるNO NAME

*5:ここでいうセカイ系の定義は、町口も『教養としての10年代アニメ』でも触れているように、「〇三年以降、文芸評論で東浩紀斎藤環笠井潔らによって取り上げられはじめた結果、しだいに定義が変容し」たものである。